MEMORIA メモリアのレビュー・感想・評価
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音の映画
映画の「音」とは映像の従属物に過ぎないのか否か。近年、それを覆そうと試みる、音を優位に置いた映画作品が散見されるようになってきた。電話の音だけで事件を解決する『THE GUILTY/ギルティ』などがそうだが、本作も映像以上に音の方が物語に核心に迫っている作品だ。誤解を恐れず言い切ってしまうと、映像に映っているものより聞こえる者の方がはるかに重要な位置を占めている。
主人公の脳内に響く音の正体はなんなのか、それは映像では全く切り取ることのできない、壮大なイメージを観客に与え、想像力を無限に広げてくれる。映像は具象的な表現だが、音は抽象的な表現。あらゆるものが映像化されて、見たことのないものを提供することが困難になりつつある時代、観客が体験したことのない未知の世界を提供できるのは、映像よりもむしろ音なのだとこの映画は教えてくれる。
アピチャッポンらしい悠久の時間と陶酔と
アピチャッポンの映画には眠りと陶酔がある。それほどまでに心地よく、なおかつ、その向こうで深淵に繋がっているかのような神秘性を持つと言うべきか。舞台をいつものタイからコロンビアへ移した本作は、耳元で爆発音が鳴るのを感じる主人公の物語。サスペンスか、ミステリーか、超常現象ものか。頭の中をハテナで一杯にしながら、アピチャッポンらしい心地よい時間と空間に身を浸していく。本作を理路整然と言葉で説明することは困難だ。でも我々は頭で考えることに決して固執せず、心で感じることができる。私は本作で太古に刻まれた記憶の声に耳を澄ませたり、他人と対話したり、自然に身を委ねたり、はたまた音響技師が効果音を使って爆音を再現したりする中で、なぜだかふと「映画の本質」に触れたような鮮烈なイメージに貫かれるのを感じた。映画とはつまり、記憶を発見し、再現し、そして共有する作業ではないかと、この作品に包まれながらそう思った。
超難解な作品
2022年 超難解な作品
この物語は、昨今発見された「記憶媒体」に関することからヒントを得たのかもしれない。
我々は一般的に、記憶媒体と聞けば磁気テープ系やハードディスク系を想像するが、ごく最近「石」や「水」も記憶媒体になることがわかってきた。
もしそれら物質から、太古まで遡ってその記憶を取り出すことができたなら?
この作品はこのことを言っていたのかもしれない。
特に「大きな音」は、自然の音とは違い、物質に深く記憶として刻み込まれている。
それをキャッチできるアンテナがあれば、一般的に言われる超能力に目覚めることで、その記憶を「再生」してしまうことが起きるのかもしれない。
このことと「アカシックレコード」という概念がこの作品の下敷きとなっている。
この作品は2021年カンヌ国際映画祭において審査員賞を受賞しているが、審査員たちは博識故にこれらのことがすぐに理解できたのだろう。
この作品は、正直何を言っているのかわからない人が大半だろう。
特に最後の「OOO」にはひっくり返ってしまっただろう。
太古の地球 大きな音 その正体
さて、
主人公ジェシカ
彼女がおかしな音に悩まされ始めたきっかけは、愛犬を安楽死させたことだったようだ。
しかし奇妙なことは「音」だけにとどまらない。
入院していた妹との会話や、妹の歯科医が生きていること。
そして何よりも、その音を再現してくれたミキシングの「エルナン」
ジェシカは彼と親しくなり、花農園用の冷蔵庫の視察にまで出かけた。
エルナンはジェシカの「音」をヒントに、自身の専門である作曲をしてジェシカに聞かせた。
ところが再び彼を訪ねたが、そこに事務所やミキシングスタジオなどはなく、近くのスタッフに訪ねてもエルナンという人物を知らないという。
そして聞こえてきた音楽 演奏する4人 その音楽は、「エルナン」が作曲したものだったに違いない。
その音楽をエルナンは「妄想の深淵」といった。
これら不思議な出来事が次々とジェシカの前に現れ始めた。
妹が入院していた大学病院で仲良くなった女性と彼女の人類学 遺骨の発掘 6000年前の少女
この作品の舞台はコロンビア スペイン語圏の国
そして彼女の研究に魅了されて訪れたジェシカは、その発掘場所を訪れた。
そこで出会った不思議な男
彼は頭の中の「音」に悩むジェシカの姿を見て「大丈夫か?」と声をかけた。
彼の名前はなんと「エルナン」
そしてこの男は自身を「ハードディスク」だという。
また、ジェシカを「アンテナ」と例えた。
アンテナ能力が芽生えたジェシカは、エルナンの記憶を共有してしまう。
彼の幼い頃の記憶を見て、自分の体験だと勘違いする。
さて、
この作品には効果音や音楽は一切使われず、日常と自然の音だけがある。
あの「音」だけが唯一の効果音だろうか。
発掘現場近くに住んでいたエルナン 彼の手を自身(ジェシカ)の腕に置くと見えた彼の記憶と、彼が石から見た記憶が伝わってきた。
「何故泣く? 君の記憶じゃないのに」
「あの音が聞こえる。これもあなたなの?」
「そう。でももっと昔の音」
エルナンの言葉は非常に奥が深いと思われるが、なかなか読み解くのは難しい。
特に、「猿の言葉がわかる。憶えている。宇宙で探していたら、俺が生まれた」というセリフは非常にスピリチュアル的で解釈すれば誤解がつきまとうだろう。
簡単に言ってしまうと「私とは、宇宙そのもの」という意味。
そして私自身が宇宙を内包するように、宇宙とは一人に一つずつ「存在」する。
この作品は、この「事実」を解釈せずに表現している。
ジェシカの頭の中にだけ聞こえる「音」
それは、ジェシカの覚醒のきっかけだったが、その原因は一つの宇宙をジェシカが葬ってしまったこと。
ジェシカとはごく一般的な人間だが、その一般という日常にあふれる常識や普通とかという名の影に、本心とかセルフとか言われる真の自分が隠れてしまっている。
それは成長の過程なので、セルフも問題にすることはないと思われるが、ジェシカ本人にさえ気づかない本心が「声」を上げたのだろうと解釈した。
その声に応えたのが「セルフ」のようなもので、彼女に「音」を聞かせたのだろう。
そうして彼女がたどるようになった軌跡こそ、「シンクロニシティ」だった。
その過程で、彼女は妹の話やスタジオのエルナンとの不思議な齟齬というのか、すれ違いのようなものを体験する。
この描写は日常のあるあるだが、実際には「パラレルワールド」に移動したのだろう。
彼女は今までの日常から、別の日常へ移っていった。
また、
発掘現場そばの病院で、医者はジェシカに「ご主人は?」と尋ねるが、彼女はそれには答えない。
答えられなかったという方が正しいかもしれない。
それは、何らかの理由で夫と別れたのだろう。
それは彼女にとっての大きな「喪失」であったが、同じ喪失を愛犬には安楽死という方法を取ったことで、彼女の中の「本心」が「ざわついた」のだろう。
この物語のすべての「原因」
都会であっても雨は降る。
この自然現象は、地球があるから起きるが、当然宇宙がなければならない。
同じように「私」と言う存在は、「私」単体では成り立たない。
この私とは何か?について考えると、私自身の自己紹介が始まるが、その場所や、特別な「もの」について説明し始めると、そもそもの「私」という存在の説明から徐々に遠ざかってしまう。
つまりそれらすべてが「私」と何らかの関係があり、この関係性(縁起)によって「私」が居ることになる。
この関係性はすべての「もの」と関係している事がわかるが、つまりそれは地球であって、そもそも宇宙だ。
この作品は、このようなことを説明せずに描いている。
この妄想が正しいとは言えないが、一つの解釈だ。
妄想の深淵にこそ、真実が宿っているのかもしれない。
超難しい作品だった。
幻聴に悩むおばさん放浪記
園芸家のジェシカは大きな音で目を覚ますが近所で爆発や地震があった気配はない、以後、似たような衝撃音の幻聴で精神を病むジェシカおばさん。
知人の紹介で音響スタジオを訪れミキサーのエルナンに幻聴音の再現を頼みます、映画の効果音のライブラリーの音を加工して幻聴音の再現に成功、以後、映画の中でこの音が繰り返し使われていました。ジェシカが再度スタジオを訪れるとエルナンなんて男はいないと言われます。ジェシカは幻聴だけでなく幻覚にも襲われているのでしょうかね。妹の入院している病院で出会った女医から分析中の6000年前の女の子の骨を見せられる、建設中の田舎のトンネルで掘り出され調査に向かうと言う。何故か興味をもったジェシカも田舎に向かう、川のほとりで幻聴によろめくジェシカに「大丈夫か」と男が声をかけた、魚の鱗取りをする男はなんとミキサーと同名のエルナンと名乗った、意気投合したジェシカはエルナンの家にゆく。ベッドや家具をみたジェシカはエルナンの昔の思い出を語る、記憶を読めるジェシカに驚いたエルナンは俺はハードディスクでお前はアンテナだと語る。また、幻聴に襲われたジェシカが窓の外を見ると森にUFO、音はそのUFOの噴射音、なんだ、今度はSFかい・・。
2時間越えの長尺だが、意味不明、第74回 カンヌ国際映画祭(2021年)で審査員賞をとったそうだが作家性が強すぎて、凡人のおじさんには謎だらけ、理解不能でした。
音を感じるということ
人はそれぞれ音を感じる聴覚、センサーを持っている。
人によってセンサーの感度は異なる。
敏感であればあるほど、微弱な音を高解像度に拾うことができる。
しかし感度が良すぎると騒音の中では暮らし辛い。
冒頭のバスが故障?するシーンは印象的。
タイヤのバーストか、エンジンの故障かわからないが、突如鳴り響いた爆発音に、驚き伏せる男性。
おそらく銃撃などを経験した事があるのではないかと想像できる。
周りの人々はただ道端に寄せるバスを気にするのみ。
音と記憶は結びつくということが一瞬で示される。
音は視覚とは異なる特別な情報源である。
しかし人為的な騒音の中で暮らす現代人は音に鈍感になっているのかもしれない。
音に限らず、
考古学的史料から過去を分析することに似た、環境から情報を得るという能力を我々は秘めている。はずである。
そんな騒音の世界から解放してくれるひと時が雨の音。
と言った感じかな?
はじめは長えと思った。
劇中、今聞こえている音は映画の効果音か自分の部屋の音か、もしくはどちらでもない耳鳴りか?
わからなくなる。
その思考こそがこの映画が示している、環境(環境音)から情報を得るという作業であったと思う。
聴覚を使って見えているもの以上の情報を得る事ができる映画で、ネクストドアを開かれた感じがした。
個人的にはDVDが欲しくなるくらい強く惹かれた。
No. 1637
タイトルなし(ネタバレ)
テーマは簡単。
この演出家がタイ人であるゆえに、異邦人としてのアイデンティティを音で表したと思う。
ただ、それだけ。
海外に行くと周りが他国の言葉であふれかえる。最初は一生懸命に聞き取ろうとするが、なれてくるとただの雑音。都会の喧騒の中で楽しそうに語り合う人々の会話が、僕にとってはただの雑音になることがある。僕の場合、それが自己の喪失感ではなく、寧ろ
、異国に於けるアイデンティティと感じる事がある。勿論、こちらからは必要以上喋らない。
さて、映画は、タルコフスキーを気取ったり、アッバス・キアロスタミの音を利用したり、挙げ句の果てにテオ・アンゲロプロスの長回しで締めくくる。
アドレナリンがでまくる事はないが、10分も記憶が続かない。突然鳴る音で覚醒するが、慣れれば、覚醒するまでに映画は終わっている。
やっと見終わった。四時間かかった。それで挙げ句の果ての果てに「そりゃないだろ」と呆れてしまう。
不条理ではなく、シュールレアリズム?何かのメタファーなんだろうが、この女性がコロンビアにいるアイデンティティそのものが見えてこない。
「僕の四時間返せ!」って言いたくなる。
あの音の正体
なんとあの音はUFO(今風にはUAPというらしい)の発する衝撃波だったのだ。ビジュアライズしてくれてたからわかりやすいよね(棒)。ジェシカはあのUFOによる時空の歪によっていくつかのマルチバースを乗り換えていた、というわけだ。それで不思議な心象風景映画となっている。なんといってもティルダ様だし、全体の雰囲気はよかったが....
長げ〜よ!眠いよ…
映画の楽しみに不可欠な想像性・空想性を大いに刺激する一本
【共感性】撮影 × テーマ = 第三者だから気づけたり功を奏すこともある?ウイルスや細菌のように感染する、音と記憶の旅へと誘われて
"妄想の深淵"を彷徨い歩いた --- 異国の地で、自分だけに聞こえる爆発のような音の正体を探っていく内にさらに味わう奇妙な不思議体験…。だけど、それらは不安にさせられるというよりも、なんだか暖かい。そんな不思議な魅力に魅了され惹き込まれた。知る由もない他の人の記憶を感じ取れる、タイトルに偽りなしな深い音と記憶(を巡る)の旅を追体験する。
『ブンミおじさんの森』アピチャートポン・ウィーラセータクン監督 × ティルダ・スウィントン主演 = 監督の英語になっても、スペイン語を話しても言語で変わることのない監督らしさ。シンプルだからこそ、あれこれ考える余地が広がっていて難しい。時の忙しなさからしばし解き放たれたようなコロンビアへのリアルな訪問のトーン空気。しっかりとそこに暮らす生活を垣間見るように感じられた。だけど何処か少し異世界を感じるようなファンタジックさも兼ね備えている、物静かなサプライズ。
主人公含む特定のものに寄ることなく一歩引いた場所から、定点での撮影。一見淡々としながら情感豊かとでも言おうか、空間の切り取り方が時に絵画のようですらあって美しかった。ときにワンシーンワンカットみたいな長回し等、個人的には『ホモ・サピエンスの涙』をタイムリーに見ていたこともあって少しロイ・アンダーソン作品思い出した人間の営み。この監督らしさを語れるほど知らないけど、少なくとも本作に関しては、画と同じくらい音も印象的だったし、エンドロールでも雷雨が鳴っていた。
"世界の美しさを理解する" --- 昔があるから今がある。音探しの自分探しかと思いきや人との出逢い。説明するのは難しい。君は俺の記憶を読んでる、俺はハードディスクで君はアンテナ(電波仲介役?)。自らが街や自然、世界の一部であると理解するように、あの人にもこの人にも、まだ見ぬどこかの誰かにも記憶というそれまで(生きて)来た道程があることを忘れないで。見逃すには惜しいものもあって、至るところに物語はある。そう、菌のように。理由探すのなんて後からでもいい、小さなことこそ大事。
P.S. ここ2日ろくに眠れていないこともあって見始めてしばらくしたら少し眠気がきたけど、途中でうたた寝することなくどうにか完走。あと、そういうコンディションもあったのか、本作の長めな本編尺をあまり感じさせられず、比較的さっと見られた。それはそれでよかったけど、今度は目がパチっと冴えている状態でじっくりと見直したいな
すばらしかった
久しぶりのアピチャッポンの映画、もしかしたらウトウトしてしまうのではと少し心配でしたが、まったくそんなことはありませんでした。
一見、何もない空間を延々と映しているように思えるシーンに出会うと、「何もない」と思うこと自体が世界を視覚ばかりで捉えている証拠なのだと気付かされ、そうでない感覚で世界を捉えたら?という内なる問いかけが自然と湧いてきます。
記憶は至る所にある。目に見えるものだけが世界ではない。
この監督が繰り返し描いているテーマですが、また鮮やかな形で表現されています。
主人公のアンテナはたぶん人類史誕生以前の太古の記憶にまでつながっていたというところもすごく好きです。
まるで誰かの夢の中にいるよう
音、記憶、眼差し、湿度
自然に癒やされる2時間
映画館でゆっくり向き合う
感染するのはウィルスや菌だけではない。人間の観念や記憶もまた伝染し堆積する。ネットの網が伝播するように、風と水の惑星である地球において、太古の昔からウィルスや菌がその役目を果たしてきたのか。
頭蓋骨に響く轟音を「地球の核から出るような音」と説明していた。巨大な堆積物である地球と、同じ物質である我々人間の「内なる核」から出る音か。
古代人は、穿頭術によって意識を高め神秘的な力や幸福感を得ていたのかもしれない。個人の記憶、場所の記憶、集合意識からの解脱を試みたのかも。
前半部分はジェシカの物質世界での夢か。夢の中を彷徨うような印象だった。ここでのエルナンはセクシーで魅力的な男性だった。中年女が戸惑いながらも理想とする男性像のようだった。
車を運転しながら徐々にスピードが加速したシーンからアナザーワールドへ移行。
こちらのエルナンは本来の自分へと導く存在のようだった。魚の鱗を取るエルナンは、魚型の宇宙船でやって来た宇宙人か。
岩や石やコンクリートは記憶の波動を吸収しており、エルナンはその記憶を保存するハードディスク。
自家製の酒によってアンテナの精度が上がったジェシカがそれを感知する。
暴力に満ちた古い地球の記憶を共有した二人は離脱する。
死とは、物質世界を味わった自分が、自分ではない「本来の自分」になることなのかもしれない。
これでもかと言うほどの長回し。遠雷と水の音。私はじっくりと「音」と「映像」に向き合えた。
アピチャッ“ポン!”
処女作『ブンミおじさんの森』でも感じたのだが、このアピチャッポン“音”に大変興味がある人っぽいのである。その興味が高じたせいかはわからんが、本作の主人公ジェシカ(ティルダ・スウィントン)が悩ませられる病気=脳内爆発音症候群という奇病にアピチャッポン自身かかってしまうのだ。その病気とコロンビアの山々が描く稜線を何とか結びつけられないか。そんな突拍子もない思いつきから本作は生まれたらしい。
爆発音の正体を探し求め、たぶん詩人だろうと思われるジェシカが、コロンビアのアチコチをふらふらと只彷徨うだけのお話し。といってもラストのとんでもないオチ以外、これといったストーリーはない。2時間ちょっとの上映時間中眠くてしょうがなかった、というのが正直な感想だ。人が眠っているシーンが多いことでも知られているアピチャッポン、観客が寝落ちしたとしても不思議ではない、静寂に包まれた作風は本作でも健在だ。
だがしかし、眠さをこらえてがまんにがまんを重ねたご褒美がまさか…テレンス・マリックもびっくりの理解不能なエンディングに、私のお目目も思わずパッチリ、すっかり目がさめてしまったのである。デビュー作でいきなりのパルムドール受賞、本作でプロデューサーをつとめているジャ・ジャンクー以下大物映画関係者たちも大いに肩透かしを食ったことだろう。
鬱蒼としげる木々や石ころに人類の記憶=メモリアが刻まれているという理屈はまだ許せるものの、それが『ツリー・オブ・ライフ』に出てくる白亜紀をも一気に飛び越えた時代まで遡ってしまうと、それとはまったくつながらないこれまでの展開は一体なんだったのかと、皆さん呆気にとられるはず。第一この映画、麻雀でもないのにやたらポンポンポンポン鳴きすぎなのだ。アピチャッポン、病気で○を少しやられちゃったのかもね。
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