「無邪気で邪悪な“いたずら小僧”アドルフ」劇場完全版 熊川哲也 カルミナ・ブラーナ 2021 Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)
無邪気で邪悪な“いたずら小僧”アドルフ
この映画の最大の問題点は、インタビューを除けば、正味1時間ちょっとなのに3,500円もすることだ(笑)。
そのためか、ほぼ貸し切り状態の大スクリーンだった。
自分も行くか迷ったが、しかし終映後には、作品の出来栄えに納得してスクリーンを後にした。
言葉が理解できないので何とも言えないが、「カルミナ・ブラーナ」のテキストは、この上演において変えてないはずだ。
そうなるとこの熊川版は、オリジナルのテキストのまま、全く別のストーリーを舞台上に展開させていることになる。
合唱や独唱で歌われる歌詞、すなわち、春を言祝ぎ、恋を語り、酒に溺れる歌詞は、もはや本来の意味を持たない、単なるBGMと化している。
公式HPによれば、この熊川・2021版のストーリーは、女神・フォルトゥーナが「悪魔の子・アドルフを産み、世界を崩壊させようとする」が、なぜか気が変わって、「アドルフを自らの手で殺める」話らしい。
アドルフは、言うまでもなく「ヒトラー」である。“ナチス式敬礼”さえしてみせるのだから、この作品は欧米では上演不可能かもしれない。
冒頭で熊川は、この2021版においては、フォルトゥーナは「人類」であり、暴れまくるアドルフを「コロナウイルス」に見立てる寓意を込めていると語る。
つまり、「人類」が「コロナウイルス」に打ち勝つという、希望的メッセージがある。
ただ、自分にはそんな大げさな話には見えなかったし、そもそも「人類」が「コロナウイルス」を産み落としたとすれば、話がおかしいというか、“武漢ウイルス”になってしまう(笑)。
実際の舞台を見ても、“いたずら小僧”アドルフが、自らの邪悪で強大な力を自覚せずに引き起こしてしまう大騒動に対して、フォルトゥーナがビックリして、息子を捕まえて事態を収拾しただけのように思える。
アドルフを「コロナウイルス」に見立てるのは、とても適しているが、「人類」の“運命”をもてあそぶ女神を、「人類」そのものに見立てるのは、無理がある。“運命の女神”は、そのもので良い。
アドルフの行動は行き当たりばったりで、世界を破壊する目的や計画性を持つ、確信犯的な“悪魔”には見えない。
アドルフは、“ある男”を気まぐれに「サタン」に変え、その「サタン」が「白鳥」や自然を痛めつける。
「太陽(と自然)」を迫害し、「神父」を堕落させ、あげくに「天使」を殺してしまい、「サタン」さえ蹴り飛ばして嘲笑する。
しかしアドルフは、「天使」の死体を不思議そうに眺め、動揺しているように見える。アドルフが、自分の行動に自覚のない、無邪気な“いたずら小僧”に見えるシーンである。
アドルフが、うずくまってシュンとおとなしくなると、「太陽」や「ヴィーナス」や「神父」や「サタン」が力を盛り返し、“許し”の章になり、キャストがすべて“集結”する。
しかし、そこでは終わらず、最後はフォルトゥーナがアドルフを捕らえて、“天の岩戸”のようなところに葬って、舞台は終了する・・・。
本作品の一つの特徴は、実際のライブ映像ではないので、クレーンやドローンさえも使って、カメラを至る所に配置したことだろう。
冒頭とラストの、フォルトゥーナとアドルフが絡んで“二人羽織”のようになるシーンでは、カメラが近接してグルグルと周りを巡る。
期待したほどではなかったものの、通常の“ライブビューイング”よりは、ずっと迫力のある映像になっている。
ダンスの振り付けは、オルフ編曲&作曲の現代作品にしては意外なほど、ほとんどクラシックバレエに徹したと言って良いのではないだろうか。
男性の踊りは、時に荒々しいモダンダンスになるが、女性の踊りは、ほぼクラシックだろう。
この曲のリズムは明確で、ストラヴィンスキー「春の祭典」のような複雑なリズムを持たないので、クラシックバレエとは親和性が高いのだろう。
自分のような素人には、ダンサーの技量は分からないが、エレガンスとダイナミズムを併せ持つ見事なものだった。
コロナ禍で彼らが踊れる場所を失っているとすれば、本当に気の毒なことである。