劇場公開日 2021年9月3日

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「とても清々しい作品」テーラー 人生の仕立て屋 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5とても清々しい作品

2021年9月6日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 主人公ニコスの表情がいい。基本は無表情で大抵のことには驚かないが、時折見せる笑顔がとても幸せそうだ。仕立屋だから当然の如くスタイリストであり、自分で仕立てたスーツに身を包んだ姿は一部の隙もない。上着を脱いでチョッキの肩に黄色いメジャーを掛ければ、職人然とした佇まいに信頼感が漂う。いいスーツを仕立ててくれそうだ。
 景気がいいときであれば、金持ちの男性たちがこぞってスーツを仕立てに来たのだろうが、ギリシア全土を覆う不景気の影は、高級スーツを真っ先に見捨てて、アテネの街は皆Tシャツだ。スーツを着るのは結婚式か葬式くらいである。ニコスの出番はない。
 そう言えば東京の勤め人も、スーツ姿がだいぶ減ってきている印象だ。コロナ禍の人出の様子として毎日ニュースで映される渋谷駅前の交差点には、スーツ姿はちらほらである。新橋ならもう少しスーツがいるだろうが、戦後の高度成長期みたいに100%近いスーツの群れは、もはや東京では見かけることがない。東京で見かけないということは、日本のどこでも見かけないということだろう。
 ニコスの仕立てるスーツは800ユーロと言っていたから、大体10万円程度である。仕立てのスーツが10万円なら、東京ではとてもリーズナブルだ。銀座で仕立てたら50万円ほどである。安くても30万円だ。アテネの物価が安いといっても東京の半分までは安くない。ギリシアの不景気の程度がわかるというものである。

 なんとか仕立屋の仕事で客を増やそうと奮闘するニコスだが、どうにもその仏頂面が気になる。世界で一番セックスの回数が多いのがギリシア人だそうだから、隣人の色っぽい人妻オルガを見る目に、少しはエロさがあってもよさそうなものだが、清廉潔白のニコスは、若い女性のTバックにさえ目を背ける。
 心が通わないところに愛はない。50歳まで独身を貫いているニコスには、そんな思春期のようなプラトニックな雰囲気がある。身の上話をした日のオルガとの交わりは、ニコスにとって久しぶりに訪れた至福のときだったに違いない。よかったね。

 差押えを食らって店はもう使えないが、銀行を恨むのは筋違いだ。景気が悪くなれば銀行も背に腹は代えられないのだろう。こうなれば行商一本でいくしかない。50歳での旅立ち。別れは寂しいが、きっと出逢いもある。人にも出逢うだろうが、新しい生地にも出逢うだろう。仕立ての腕一本で生きてきた。どんな生地でも仕立てられる。これからも腕一本で生きていくのだ。明日は明日の風が吹く。とても清々しい作品だった。

耶馬英彦