「観なければいけない映画、覚え続けていなければいけないこと」アウシュヴィッツ・レポート CBさんの映画レビュー(感想・評価)
観なければいけない映画、覚え続けていなければいけないこと
痛快!というのではなく、重苦しい映画だが(それでも「サウルの息子」よりは軽いかな)、「過去を忘れる者は、必ず同じ過ちを繰り返す」というメッセージの通り、過去を忘れないためにも、こういう映画を観続けることが必要だと思っている。
吊るされている男のシーンのオープニング。冒頭の遠くから聞こえてくる汽笛に、収容所で働いている全員の手が止まるシーン。これが、「ああ、またガス室で死んでいく人々が多数送り込まれてきたんだなあ」と感じて手が止まるのだということは、映像の中で、だんだんわかってくる。
収容所に入れられたとたん、着ているものを含むすべての荷物が没収され、髪の毛を切られて坊主にされ、名前がなくなりナンバーで呼ばれるようになり、と収容所の非人間的な扱いをたった5分で描き切る。(そしてもちろんガス室での大量殺人と死体廃棄)
そこから脱出するふたり。ふたりとふたりの脱出を支える同じ棟の全員の思いはひとつ。それはなんと「助かりたい」ではなく、「こんなひどいことが行われているこの収容所の場所を伝えるから、空爆して灰にして、1日でも早くこんな非道が続かないようにしてくれ」と訴えるため。
----- 以下はネタバレです。観てからお読みいただくことをお勧めします ----
(自分がちゃんと記憶しておくためにも、どうしても書いておきたい、という衝動を抑えきれませんでした)
脱出に成功するか否かに手に汗握る前半は、「ひたすら隠れ続け、ナチスにいつ脱走したかわからなくする」という耐え続ける映像。11日間を費やす脱出劇は、とうとう赤十字の拠点にたどり着く。脱出に成功して万々歳かと思いきや、駆け込んだ拠点で、もうひとつの苦悩が待っているという、重層的な苦悩が描かれる。「俺たちが生き証人だ」と訴えるふたり、持参した死亡者の人数と処刑月日を明記したレポートがあるにもかかわらず、赤十字の人の第一声は、「しかし、ドイツ赤十字社のグラヴィッツ博士は、収容所に入った人は健康的に暮らしていると報告しているし、赤十字の現地訪問の際に、虐殺の事実はなかった。私たちは、ドイツの収容所に十分な支援物資を送り続けている」 もちろん脱出してきた、骨と皮だけの姿をしたふたりをまのあたりにし、驚きながらではあるが、まずは公式レポートを信じなければならない赤十字担当者の苦悩も手に取るようにわかる。とは言え、収容所で行われていることと、その脱出劇の困難さを観てきた自分としては、脱出したふたりと同じ心境となる。「なぜわかってくれないんだ。ドイツのグラヴィッツ博士が言っていることは大嘘だ。彼はナチ党員だ。現地訪問した日というのは、ある1日だけガス室も焼却場も動かなかったあの日に違いない。あなたたちの支援は、ただの一人の命も救ってはいない」と叫びたい気持ちになる。
映画でも、「アメリカに伝わるようにして、ドイツと交渉するよ」という赤十字メンバーに対し、脱出したふたりは叫び声で頼む。「ノー。殺人者と交渉するな。あの場所を焼き払うんだ。囚人たちも、日々、それを望んでいるんだ」 この絶望感。忘れてはならぬもの。
「このレポートは、7か月後に公開された」という。少し悲しい事実は、テロップで俺たちに伝えられる。
そのテロップに続いて、エンディングクレジットのバックで流れる、さまざまな「現代の指導者たちの発言」を見逃さないで、聞き逃さないで、とピーターバラカンさんの感想にある。ホントにその通りだと思う。ここで流れる音声の多くは、過去の発言ではなく、現在の世界における各国首脳の発言なのだから。
小島さんが言う通り「彼らのレポートを記憶として繋ごう」と強く、思う。その上で、森さんの以下の感想は、さらに一歩踏み込んで考えることに、俺たちを導く。「忘れずに」そして「考える」ことを厭わないようにしよう。
--- ここから公式サイトから引用 ---
これは昔話ではない。今につながっている。まったく同感。だからこそ思う。加害された彼らはイスラエルを建国し、今はパレスチナの民を加害している。救いのない連鎖が続く。そこで本作の冒頭に立ち返る。過去を忘れる者は必ず同じ過ちを繰り返す。問題は忘却だけではなく記憶のありかただ。
--- ここまで公式サイトから引用 ---