「創作部分の必要性はあるのだろうか?」めぐみへの誓い バリカタさんの映画レビュー(感想・評価)
創作部分の必要性はあるのだろうか?
知るべき事実、許せない事実・・・「拉致被害」。
この事実の存在、その事実の顛末、残された被害者家族の苦悩、国の体たらく・・・
決して終わっていないこの信じがたい許しがたい事実を風化させないためにも、忘れてはいけない日本としての負の歴史として、忘れてはならないことを映画作品として残し、上映することに大きな意義を感じます。
ただ、悲しいかな、本作の上映間の少なさが現在の日本の本件に対しての興味の低さを物語っているのではないでしょうか?残念です。
さて、作品としての感想ですが、映画としてはしっかり作られておりますが、僕個人の意見ですが、創作面が邪魔をしていると感じました。
公式HPで原作・脚本・監督の野伏さんが
「〜しかし、見る人の心を動かすためには、理不尽さへの怒りだけではなく、映画としての感動が無くてはなりません。逆境の中で生き抜く、横田めぐみさんや田口八重子さんの他の被害者、そして、救出のために戦い続けるご家族に共感し、感動の涙を流す映画を必ず作ります〜」(HP 引用)
と語っていらっしゃいます。
政治家も外務省もあてにならないから、民間の力で映画を作り国内外に発信していきたいという思いだそうです。
確かに本作品内でも政治家があてにならないという意思は十分伝わってきていますし、きっとそうなのだろうともいます。ただ、「映画としての感動」「感動の涙を流す」という部分では僕は賛同できないのです。それを実現するために妙な味付けをしていませんか?という気がするのです。
事実を元に創作しているという点は冒頭テロップで出ますが、その創作部分は「かわいそう」「気の毒」「あいつらひどい」という感情を高めるものであり、それに民間の力だけで抗う姿に家族愛の感動を与えようとしているともいますが、本件に置いて「作られた感動」に意味はあるのだろうか?と思います。
国内外に発信していくということであれば、この事実とも断言できない部分を多く含む作品を受け入れてくれるのだろうか?と思うのです。このような作品では、全国の学校での上映も難しいと思うのです。創作部分が含まれていることを事実として捉えられても困るからです。
感動にこだわってあまりに演劇的すぎる映画ではなかったのか?と思います。拉致問題の存在、突然家族がいなくなった苦しみ、見つける努力を続ける家族の事実、無力・無策の国、不誠実な相手国・・事実を並べ並べるだけでも、十分感動作は作れるはずです。
家族の皆さん、支援団体の皆さんの活動は大きな感動を生みます。
色々味付け(脚色)がくどくてストレートに入ってこない・・・拉致事件自体がフィクションに見えてしまったことが残念で仕方ありません。
ただ、問題を一方的に特定し攻撃的かつ偏重的な物語にせずに、終始客観的であろうとする描き方は好感が持てますしその姿勢は賞賛に値すると思います。また、誤解を解くような説明も含めること(くどくならない程度)も良い点であったと思います。
色々書きましたが、やはり多くの日本の方に見てもらいたいと思います。評点関係なく。
良作です。