「個人の信念の「狂信性」の怖さ」KCIA 南山の部長たち sow_miyaさんの映画レビュー(感想・評価)
個人の信念の「狂信性」の怖さ
映画「ソウルの春」へとつながる、朴正煕大統領暗殺事件を扱った作品。今作を単独で観ていたらきっとわからなかっただろうと思うことが、ユン大統領の非常戒厳騒動と「ソウルの春」の視聴のおかげで大分理解できた。
ただ、どちらの作品を観ても、やっぱりその時々の軍のクーデターの大義名分が、自分にはよくわからない。反共や北の脅威が強い理由になっている(今回の非常戒厳も)が、日本の植民地支配を経てソ連参戦からの南北分断、その後の朝鮮戦争という経緯を考えると、そもそもの昔に戻る南北統一に気持ちが向かうのは、人々としてごく自然なことのように思うのだが、大韓民国としての体制維持の観点からは、そんなに許されないものなのだろうか。朝鮮戦争のきっかけとなった北の侵攻や、南だけで国家の樹立が急がれたこと、朝鮮戦争の結果の何十万人という犠牲者、形式上は今も休戦状態ということからすると、やっぱり許せない状態なのかもしれないが…。
「モガディシュ」や「宝くじの不時着」の中に見られたような世界を望むのは、自分が傍観者でいられる立場だからなのだろう。
それでもなお、東西ドイツが統一を果たしたように、朝鮮半島の統一の道を探る方向が主流にならないものか、自分はずっとモヤモヤしているので、クーデター自体が、もっともらしいことを口実にした単なる権力闘争に見えてしまうのだ。(実際にそうなのかもしれないけれど)
体制側の腐敗を指摘し「国民のために」とは言うが、朴正煕が起こした5・16軍事クーデターの目指したものが、今ひとつつかめていない自分にとって、イ・ビョンホン演じるキム部長が繰り返し語る「我々が何のために革命を起こしたのか思い出してください」というのが正直入ってこない。
「反乱分子は戦車で轢き殺せ」という警護室長や大統領に対して、苦虫を噛み潰したような表情はするものの、大統領がいみじくも指摘したように、キム部長自身も「目的のためには友人(パク元部長)を殺す人物」な訳で、「何を国益と考えるか」の違いによって、「犠牲にしても仕方がないという相手が誰か」が変わっただけに過ぎないのではないかと思ってしまう。
そう思いながら観ていると、この映画の本当の怖さは、「これが絶対に国のためになる」と思っている個人の信念の「狂信性」なのではと思わされる。(そうした点でいうと、「ソウルの春」でも、今作でも、自分の欲望にまっすぐな人物として描かれる全斗煥は、逆の意味で清々しさを覚えるくらいだ)
今作の中で、朴正煕は度々「君のそばには私がいる。好きなようにしろ」というセリフを口にする。パクもキムも南山の部長たちはそれに従い、良かれと思ってしたことの揚げ足をとられて失脚していってしまうのだが、その人が判断基準になる人治主義の手法が、こうして全斗煥に継承されていったんだなというのは、よく見てとれた。
というように、すっごく面白かったとまでは言えないが、改めて色々考えさせられた映画だった。
本筋とは外れるが、お酒が本当に美味しそうに描かれていて、マッコリのサイダー割、やってみたくなった。