映画 太陽の子のレビュー・感想・評価
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母の全てが詰まったおにぎり
ラストのおにぎりを頬張り下山するシーンは母の思いがちゃんと伝わったことを意味する感動の場面です。まず主人公の修が何度も母に対する思いを吐露しますが、母の気持ちとは裏腹に一貫して自分は愛されていないと思い込んでいます。母から弟の訃報を聞かされた際に母が口にした「なんであの子が死ななあかんの」を自分が死ぬべきだったと言われたかのように捉えていて、その直後に科学者として徹底して生きることを選び、街が爆撃に襲われる様を山から観測するという非人道的な提案をして教授を絶句させるほど思い詰めてます。
食事シーンが度々出てくるが戦時中でわずかな食料しかないため、長時間研究に没頭する学生達に振る舞われるのはお椀1杯だけの具材の少ない味噌汁や家の食事も質素な料理ばかり。そんな中印象深くお米を扱う場面が、弟が家に戻った時のちらし寿司と陶器屋の娘の仏壇に供えられた白飯と弟が出兵する際の母が握るおにぎり、そしてラストのおにぎりです。
修は母を置き去りに科学者として別れも告げず夜中一人で山へ向かう際、玄関にぽつんと置かれた覚えのないお弁当を持って出て行きます。夏の炎天下の中汗だくになりながら山頂に辿り着き疲労困憊で横になり、腹を空かせて弁当を持ってきたことをふと思い出す。弁当を開けおにぎりが入っていたことに少し戸惑いながら夢中で食べ進める。貴重なおにぎりを食べながらそこで初めて自分は母に愛されていることにようやく気がつく。
母が科学者の母として京都に留まることを選んだのは愛していない息子に対する戒めの業ではなく、科学の為に京都中の人を見殺しにする息子が自分の家族だけ生き残る引け目を軽くするため、自らの死をもって科学の進歩を少しでも正当化するために選んだ命をかけた最大限の母の愛の選択です。自分が山を離れれば母を救えると思い泣きながら夢中で母の元へと駆け出す。
下山した時に世津が迎えに来たのはおそらく終戦の知らせがあったのだと思います。その後の脳内のアインシュタインとの議論は、科学の進歩は際限なく強大で、科学を進歩させることが人間にとって本当に正しい行いなのかを問いていたので、修が科学の研究をやめることを示唆してるのかなと思う。エンドロール直前の海で弟と世津の3人で遊ぶシーンは、弟が無邪気に遊んでいることから出兵前の思い詰めた弟と世津の3人で海に行った実在する記憶のワンシーンではなく、終戦後の修が本当に実現したかった世界です。キャスト全員がとてつもない演技力でどこを切り取っても圧巻だが、山頂に辿り着いてからの柳楽優弥の演技が本当に素晴らしく心がうたれるのでどうかもう一度だけ注意深く見て欲しいです。
長々と書きましたが文章を書くのが下手っぴなので伝わったか分かりませんが、最後まで読んでくれてありがとう
できれば劇場で見たかった作品
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戦時中、柳楽は優秀で、原爆開発に携わってた。
そのおかげで戦争に行かなくて良かった。
弟の春馬は戦争に行ってて、一時帰国した。
そんなこんなで原爆が広島に落ちた。
柳楽は、次は京都かも知れんから見届けると言う。
それって自殺みたいなもんやんけ。
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あんまりピンと来なかったな。
最近は劇場で見るのが常になり、TV画面じゃ集中力が低い。
やっぱりその世界に入り込めんよな、TV画面じゃ。
でも日本も原爆研究しとったんやな。知らんかったわ。
登場人物はみんな暗くないが、どこか闇を抱えてる。
戦時中ってそういう雰囲気やったんやろな・・。
劇中で春馬くんが絶望して自殺しようとするシーンがある。
やっぱり何か色々考えさせられたりはしたわな。
人間なんて、そう強い生き物じゃないんやから。
伝えたいことはシンプルだと思った。
3回視聴。さらに観るだろう。
"日本の原爆開発"を再現した映画で興味深い。
映画と同時進行で走ったプロジェクト、ドキュメンタリー「原子の力を解放せよ〜戦争に翻弄された核物理学者たち〜」(NHK BS1、2020/8/16放送、司会:吉川晃司)は、Youtubeで視聴可。
本作の研究チームを見ていると、STAP細胞をめぐる利権の闇を思い出す。
TVではアインシュタインばかり取り上げるが、ニコラ・テスラについては静か過ぎて不気味だ。
主人公とアインシュタインの会話(?)は、まるで宮﨑駿の「風立ちぬ」のよう。
歴史も数字も隠蔽、捏造が当たり前の世界で、たとえ真実を握ってもNHKはデクラスしない。
受信料を払っている国民がスポンサーだと思っていたら間違い。
そのNHKのプロジェクト映画なので、当然期待はしないし、以上のことを承知で視聴した。
三浦春馬氏(以下「彼」という)は映画上映時は既にいなかった。これも引っ掛かる。
パンフレットによると、彼が試写を観て「大事な作品が生まれましたね。あとはそれをどうやって届けていくか。そこを頑張りましょう」とあった。
生きる意志と目的を感じるコメントだが、パンフレットは回収しなくて大丈夫なのか。
他殺の証拠をあえて残したということなのか。
本作の伝えたいことはシンプルだと思った。
科学者や物理学者、F研究に関わった本人達は人類の明るい未来を目指していたのだ。
映画のクオリティや細かい再現度については、良くも悪くもNHKらしい。
権威などに忖度して激しさを圧し殺した大人しい映画であった。
原爆投下後、かなり月日が経ってから広島に行ったと思われるシーン。
投下後はしばらく足の踏み場もないくらい死体だらけだったはず。
スッキリ死体を片付けられた現場に、なぜか幼い被災者が1人いるシチュエーションがある。そのそばに親と思われる死体も。
そして死体を焼くシーン。
リアリティがないけど、凄惨なイメージのための演出なのか。
被爆についてもサラッとしか言及せず。
脚本めちゃくちゃでしょ。私の頭が悪いだけなのかな。
原子爆弾は投下ではなく地上起爆だったかもしれない。
勿論そのことは映画では触れない。
しかし、どこかに密かに入れてるかと期待して何度も視聴中…バイアスかけて無理やり見つけ出すのが目標。
「原子爆弾」って左から右に書いてるシーンに違和感を感じたが、その違和感は誤解だった。
当時の日本人は右から左に書いていた。
しかし、翻訳者が英語に混ぜて書いたらそうなるかもしれない。
エンドロール中の裸になるシーン。
誰かの回想シーンなのか。
それとも、弟は生きてたということか。
弟役の彼も、もしかしたら生きてるのか。
彼はこの映画を本当に視聴したのか疑問だ。
パンフレットすら怪しく感じる。
なんだかんだ言っても真実は分かりかねる。
本作は色々と謎だらけで怖い。
俳優の姿に価値を感じて、結局お気に入りの作品なのだ。
最後のシーンの謎 ~比叡山でのおにぎりシーン~
三浦春馬が出演していることで視聴。京都大学の原爆開発に携わった学生石村修(柳楽優弥)を中心に、特攻隊搭乗員の弟(三浦春馬)、幼馴染の節(有村架純)の3人がメインのストーリー展開。科学の進歩による戦争や破壊と人道主義のバランスの問題がテーマか。実話を基にした脚本なの
で、限界があるのだろうが全体的に中途半端な感じがした。伝えようとした物を伝えきれていないといったらよいのか。
三浦春馬は、予想通りの演技。特攻隊として出陣する前、届いた手紙は、まるで彼の遺書のように聞こえてしまった。柳楽優弥は、科学に純粋に没頭したいが故に、あまり人の感情がわからない人物像で描かれる。
あの時期、軍人を中心に、男子は如何に戦い死ぬかを考えていただろうが、そこで節が戦争が終わった後のことを考えていたシーンは、なかなか良かった。男子には、あまりない視点だったか。
科学の進歩を純粋に突き詰め、戦争がない未来を創るための原爆開発という教授の説明を信じ、修は開発にのめりこむのだが、広島の惨状を実際に目の当たりにして、次は地元の京都に落とされるかもしれないとの噂に、比叡山で様子を観察するために登ると言い出すあたりが白眉か。
それを聞いた母(田中裕子)は、科学者の親だから残ると言い出す。
母が握った大きなおむすびを頬張りながら、山の中で待つ修。突然、思い立って山を下りだし、節と抱き合う。かなりわかりにくいシーンだ。文脈から行くと、ここで待つということは、おにぎりを握ってくれた母や節を見殺しして、科学の進歩を選ぶということ。自然の中に抱かれて、素の自分に戻り、それで良いのかと涙を流したのではなかろうか。(と共に、節が呼ぶ声や戦争が終わったという声が聞こえたのかもしれない)節が探しに来たのは、終戦の玉音放送を聞いたからか。天気の良い日だったし。
科学が進歩するためには、人の命をも犠牲にする必要があるのか?身近な人が亡くなることにも臆せず、進まなければならないのか?
アインシュタインとの対話。彼は、そのような事態を予期していたのか。科学は人間をも超えていく。これは、私たちにも突き付けられたテーマなのだろう。
未来の話をたくさんしよう
科学の根本の原子を突き詰めていくとどうなるか。
恐ろしいことを言わはるなぁ。
そこに尽きる。開発競争に巻き込まれる京大研究室。
科学を突き詰めるとエネルギーの解放と破壊、そこには一瞬にして人体の原子の結びつきを変え、人体を石にし、人体の水分を沸騰させ剥けた皮が爪で止まり垂れ下がる地獄絵図と化す。
人間の心が大切に思う守りたい気持ちなど、科学の原理には通用しない。
科学者として学問を突き詰める純粋な気持ちは、
たとえその時が戦時下でなかったとしても、
机上を実際に試そうとすれば、それは人体に影響と危険を及ぼす。
原子力でも、遺伝子でも、同じ事ではないのかな。
作中、研究が殺人と紙一重と学者一同自覚をし、葛藤をしている。そこに、進んで、勝つためやアメリカ人の命を狙うために、落としたいとまで望む物は1人も出てこない。
そうなのだ戦争の惨禍は、誰も望まずに起こる。
それは科学にも組織論にも国際学にも経済学にも通ずるが、でも確かに人間が引き起こすこと。
命がある有り難みを実感し、
命の危険と隣り合わせの時、生きたいと直感し、
大切な人に生きていて欲しいと望み、
自分の命をどう使うのか、考え抜いて悩み、
できれば平和のため、日本の未来のために使いたい、
そう望む、自分の属する人類自体が、
兵器よりも恐ろしい、戦争自体を引き起こす。
下手すれば、意思を持って、
人は人殺しにもなってしまう。
自分がそういう種の生物だということが、
度々末恐ろしく、この作品も、
見終えてしばらく鳥肌が止まらない。
兵器を極めて、牽制し合う世界平和。
弾で一瞬で死ぬ人体、一瞬で狂う幸せな気持ち。
そこに大量殺戮を計画して、
苦しみと憎しみと復讐を生んで、何になる?
武器を売買して資金確保し、石油を取り合い、これをやっているから国が資源と食糧を確保し餓死せず済む仕組み。人類は恐ろしい。
開発戦争に負けました!とはっきり言わせるこの映画の製作はイオン系か。。
終戦まで未来ある学生を守った先生。
研究の、戦争の、更にその先の、未来を考えなければいけないと繰り返し作中でもメッセージが出てくる。
本当にその通り。
密かに弟の方が大切なのかなと感じる兄だったが、
母はちゃんと見ているし、
どちらにも特大おにぎりを作って、
帰宅を願い送り出す。
食い縛り生きているが戦争終われと秘める世津、
空爆を見る一瞬の三浦春馬の視線から、
あぁ裕之は憎しみも知ってしまったとわかる描写、
どんな時も平静な修の感じていた困惑と責任と喪失が、
比叡山で静かに溢れ出す描写。
演出意識の高い過剰な描写は出てこず、
落ち着いた台詞と表情の中でも、
伝わってくる人間的感情の数々に、
ますます戦争が怖い。
未来を考えよう。
口に出すのも憚られるおぞましい光景は確実に含まれていないはず。
期待したのに
映画版として三浦春馬さん扮する裕之が出撃寸前に終戦になり奇跡的に生還して本人は亡き戦友に忸怩たる想いを抱きつつも母、修、世津の
気持ちに応えるべく前向きに生きて行く、となるのだったら、終了日にギリギリ観に行く事はなかったかなぁ、と思ってしまいました。
終了日の早さに驚き予定変更して駆けつけました。
NHKの放送日に3回視聴しました。
ストーリーがぶつ切りの印象だったので映画に期待しましたが、原子力爆弾作りに関しての内容が肉付けされたぐらい?ただ、教授の物言いだと本気で完成させるより優秀な教え子を戦地で散らせないための苦肉の策ともあり、なるほどとは思いました。
偏見かもしれませんが、教授の考えも一理あると思いました。中学生ぐらいの時に、
『きけ、わだつみの声』を読んだ時、京大生の人のもあり、頭脳明晰な人達も同じように亡くなったんだ、‥‥この優秀な人達が生きていたら日本はまた違っていたのかな、と思ったことがあります。
優生思想に陥りそうですが、今の日本の実情を見るにつけ誰か国民の事を真に考え導いてくれる人はいないものか、と思ってしまいます。
命は皆平等で重みに違いは無いのでいろんな分野の貴重な人材を亡くしてもいるし、多くの方の息子、恋人、夫、兄弟、父を奪ってしまったのです。もちろん非戦闘員の人達の命も。
現在のアフガニスタンの国情を見聞きするにつけ産まれる所によってこうも不幸な人生を送らねばならないのか、とも考えてしまいます。
あまり期待した程ではなかったので残念。
裕之、修、世津の3人が若者らしく海で戯れるシーンが最後に観れて良かったかな。
福山さんについては、春馬さんのガリレオ出演に際してのコメントに呆れていましたので用もあり聞かずに退席しました。しかし、他の方のレビューで春馬さんのメイキング映像があった事を知りガーン!
おにぎりシーンは意味不明
原爆開発に携わった京大の学生を太陽の子と呼ぶのだろうか、核融合も核分裂も核エネルギー反応として一括りにして美化したような表現、タイトルに違和感を禁じ得ない。
日本人は唯一の核爆弾の被害者だが裏を明かせば原爆を作ろうとしていた事実は、どっちもどっちというところ、軍国主義の宿命とは分かっていても傷口に塩を塗られた気分にさせられる。
また、米国に合作を申し入れたというのも、あなたたちへの免罪符になる映画ですよと言うことなら噴飯もの。
戦争に巻き込まれた若者の葛藤、悲劇という点では数多の作品で描かれているので凡庸の感、最後の山頂でのおにぎりシーンの長回しは意味不明、当時、銀シャリと言われた貴重な米飯を学生ふぜいが頬張れたのは何故なのか、また視線の先に異変勃発のような思わせぶり、まさか京都に原爆投下かい?
(脱線です)
原子物理学の研究は戦前から始まっており、その優秀さは後の湯川博士、朝永博士らのノーベル賞受賞でも明らかですね。
原爆開発に着手したのは陸軍からの命を託された理研の仁科研究室が中心で、後に海軍が京大の荒勝研究室に原爆の元となるウラン235の生成を依頼した。
本作は後者の研究所を描いています。原材料は陶磁器の釉薬の着色剤として用いられていた硝酸ウラニル (ウランの硝酸塩)、京大は京都市五条坂の陶磁器専門の薬品問屋から仕入れていたようです。
ウラン鉱石は国内では希少、児玉誉士夫の一党が上海などから隠密裏に調達していたともいう、理研の方は福島の石川郡石川町から学徒動員で掘り出された鉱石を使っていたらしい。福島にウラン鉱脈があったと言うのも因縁めいていて背筋が寒い。
核分裂の連鎖には濃縮されたウラン235が必要だが天然には僅かしか含まれておらず分離や濃縮方法が鍵となる。劇中でも遠心分離法での実験が映されていましたね。理研の方法は熱拡散法であったがいずれの方法でも大量生成は困難だった、マンハッタン計画では気体拡散法でウラン235の濃度をある程度まで高めてから電磁法に掛ける方法が採られた。
従って、日本は基礎研究はしていたが実用化は無理だったと言うのが定説のようだ。
ところが、信憑性は定かでないが日本軍は北朝鮮の興南で原爆を製造しており1945年8月12日早朝、北朝鮮興南沖にて海上爆発に成功していたというCIA機密情報があるそうだ。
直後に関係者は侵攻したソ連軍に拉致されたという。ひょっとして今の北朝鮮の核開発のルーツは日本軍に合ったのか・・。どうせ映画にするなら、こちらの視点の方が興味深いですが、ヒューマンドラマでは無くなってしまいますね。
科学者とは
日本の原爆開発は、理研と京都帝国大学で行われていたが、これは京都の方の話である。
そもそもが戦争末期の時点で、ウラン分離に使う遠心分離器すら完成していない。
いったいどれだけ現実に原爆が完成すると思っていただろう。
常識的に考えて、この戦争に間に合うとはとうてい思っていないはずだ。
石村が突き動かされていたのは、単に科学的好奇心からである。
「日本の為に」なんて思うのは単なる言い訳であるだろう。
それが証拠に、彼は原爆の炎に焼きつくされる京都を比叡山から見物するという。
そこに数万の人間がいるなんて彼は考えていなかった。
ただ彼は最後に英語で問いかける。
答えるのは科学者の立場の彼自身だ。
「こんな結末を予想したか」
「もちろんだ。これまでもそうだったし、これからもそうだ」
科学者である自分に問いかける言葉だった。
科学者とはこういうものなのか。
この映画は、実話だという。日本も原爆を作ろうとしていたとは全く知らなかった。それができれば戦争が終わる、すごいエネルギーが手に入り、戦争も無くなるのだと言っている。研究者とは恐ろしい。
ひたむきに研究を続ける彼は、とても純粋ではある。
ただ、感覚はどうなのだろう。原爆が落ちるかもしれない様子を観察すると言って比叡山に登るなんて、普通の人間とは違う。原爆投下後の広島の町を見て、これを作ろうとしていたのかと呟いた時、自分のしてきたことの恐ろしさに気づくのかと思ったけれど、そうではなかった。
戦争は終わっても科学者は研究を続ける。
その結果はどんなものなのか。科学が全ての人と地球のためになればいいと思う。
この映画で良かったのは2人の息子の母である田中裕子の演技だった。科学者の息子を持つ母の覚悟、見事だった。
話の内容・キャストは完璧
正直この時代の話っていうのは思ったよりも全然知らなくて、何も知識のない状態で観てきました。
まず思ったのは観て本当によかったということです。
柳楽優弥さん、三浦春馬さん、有村架純さん3人を始め、キャスト皆さんの演技が素晴らしすぎて。
特に柳楽優弥さんの最後らへんのおにぎりを食べるだけのシーン、凄すぎました。
ただ、本当に残念なのがエンドロールの曲。。作品がよかっただけに最後の最後で興醒めしてしまう。。
人間はエネルギー資源を求めて戦争する
映画「映画 太陽の子」(黒崎博監督)から。
わざわざ、邦題に「映画・・」とつける違和感はあったが、
2020年8月にNHKで放送されたドラマ「太陽の子」とは違うよ、と
言いたかったんだろうな・・と理解した。
戦争兵器としてではなく、単なる科学として「核分裂」を追求、
そして、その目的は、戦争をなくすことだった。
この理論に、なるほど・・とメモをした。
「この戦争は何で始まったんやろ。エネルギーや。
土地も鉱物も人間はエネルギー資源を求めて戦争する。
先の戦争もそうやった。我々が核分裂をコントロールして、
そのエネルギーを自由に使うことができるようになったら、
人間のエネルギー問題は永久に解決するはずじゃ、
そしたら戦争はなくなる」
しかし、この理論の大きな間違いは、
「人間が核分裂をコントロールできなかった」ことにある。
逆に、自分達がコントロールできないものを野放しにしておくと、
大きな代償を払うことになることを私たちは、3.11で思い知った。
これから、ますますエネルギー資源を求めて、戦いが続く。
世界の人々が争わずにすむエネルギーは、やっぱり太陽光かな。
それでも科学を切り拓く
唯一の被曝国である日本。
そんな日本が戦時中、密かに原爆開発を進めていた…。
知らなかった事に驚き。…いや、衝撃。
私が歴史に疎いだけで、知っている人は知っているし、普通に知られていた事かもしれない。
自分はまだまだ何と浅はかな…。
それにしても…。
監督が広島の図書館で見付けた若き科学者の日記が基。
その日記に綴られていたのは、当時最先端の学問であった原子物理学への憧れとそれを研究する事によって拓ける未来、兵器として使われる事への葛藤、携わった若者たちの等身大の姿…。
これらを映像化したいと思い至ったという。
実に10年に及ぶ熱望の企画。
1945年夏。京都帝国大学は軍から戦局を変える一打として、原子爆弾開発の要請を受ける。
理論上は可能。が、実際は極めて困難。
その研究に没頭する教授や学生ら科学者たち。
彼らの胸中。
科学者としての光栄。全く新しい世界への研究。
科学と未来。これによって世界を変える。明るく、輝かしい未来の為に。
その一方…
知れば知るほど難しく、恐ろしい原子。
それを兵器として開発する。
それに、自分たちが携わっている…。
まだ誰も成し遂げた事のない未知の分野。
研究は遅々として進まない。
科学者として、他国に遅れ、負けたくない。
が、苦悩、葛藤、焦りが彼らを苦しめる。
議論や衝突、自問自答も繰り返すように…。
日本原子物理学の権威と云われる荒勝文策ら実在の人物も登場するが、若者たちはおそらくモデルは居るだろうが、フィクション。その分自由に“素の顔”を拡げられる。
主人公の修は超が付くほどの“実験バカ”。純粋に科学者として、この研究に誰よりも没頭していたが…。
そんな修は大学の外に出ると、元々の物静かな性格と不器用さでごくごく平凡な青年。母と暮らす。
ある日、家を失った幼馴染みの世津が病弱の父と共にやっかいになる。
戦地に赴いていた修の弟・裕之が療養の為に一時帰還。
幼い頃から仲良しだった三人。まだ戦争が始まる前、皆で一緒に遊んだあの頃…。
そんな日々が突然、戻ってきたかのように。
研究室では憔悴する修にとっては癒しの時と存在。
それは二人にとっても同じ。
明るい性格の裕之。だが戦地ではどんな光景を目の当たりにし、どんな修羅場を潜り抜けてきただろう。
世津など病弱の父を抱え、その世話をし、父や生活や自分の為に何か仕事もしなければならない。
皆それぞれの苦悩、苦労。
それが共に過ごす事によって、ほんの少しでも…。
三人共、お年頃。
逞しい好青年に。魅力的な女性に。
それを察知して、地味な自分は遠慮し…。
男二人女一人の青春と淡い想い。
裕之が再び戦地へ。ある夜の海で、本音を吐き出す。怖い。死にたくない。
日々研究を続ける修。科学を信じて…。
戦争が終わったら教師になりたい世津。戦争の時代に生まれた子供たちの新たな教育と、大人の責任。
生、科学、教育…。
皆それぞれ抱く未来や平和への希望。
元々は2020年夏にNHKで放送され、高い評価を得たTVドラマ。
それに異なる視点や結末などを加え、“劇場版”として再構築した本作。
TVドラマ版は見ていなかったので、一本の作品としてじっくりと鑑賞出来た。
柳楽優弥の迫真の演技。物静かな佇まいから、原爆開発に対して見せる狂気じみた執念、終盤の無音の中でおにぎりを食べながら流す涙…。
個人的には、これで三浦春馬が生前出演した映画作品最後の鑑賞となった。(最後の“主演”映画作品は『天外者』、最後の“出演”映画作品は『ブレイブ』があるが、リリース順に)
トレードマークの爽やかな笑顔、その下で本当はかかえる苦しみ…。それらを滲ませた好演を今も目にしただけでも…。
有村架純は二人から想いを寄せられながらも、自立心ある若い女性役で魅せてくれる。
若き科学者たちを演じた若手俳優たちも熱演。
國村準、イッセー尾形、田中裕子らベテラン。中でも田中裕子は、科学者と一兵の息子を持つ母親を、優しさと彼ら共々苦悩/葛藤含ませた演技で存在感を見せる。
修が脳内で対話するアインシュタインの声に、ピーター・ストーメア。
他スタッフにもハリウッドの一流スタッフが携わっている。
映像、音楽、美術…高クオリティー。
ストーリー展開の上で多少描き足りない点も感じたが、真摯なテーマやメッセージは受け取った。
日米共同製作。あの戦争を経て、この二つの国が原爆を扱った作品を共同で製作した事に、平和への祈りを感じた。
未だ研究が進まぬ中、遂にその日がやって来た。
8月6日。
開発競争に負けた。
それはつまり、日本が科学でアメリカに負けたという事でもある。
そしてこの時彼らは確信しただろう。日本は戦争でもアメリカに負けた、と…。
修の家にもある一報が…。
時代に翻弄され、全てを失ったかのよう。
そんなにある日研究室の面々は、広島の被曝地へ赴く事に。
開発競争に負けたからとは言え、“研究”自体を止める訳にはいかない。その調査。
いざ目の当たりにした悲惨な光景に、彼らはどう思っただろう。
我々は、これを作り出そうとしていた。
もし自分たちが作り、アメリカに原爆が落とされていたら、科学者として喜んでいただろうか。
敵国とは言え、何の罪もなく、顔も知らず、我々と同じごく平凡な人々。
そんな人たちが、こんな犠牲と地獄のような光景に遭っていたかもしれない…。
そしてそうなってしまったのは、我々日本と日本人…。
ヘンな言い方かもしれないが、彼らが作り出そうとしていたものが、彼らの全てを消し去った。
あまりにも皮肉と言えよう。
その後の修の動向。
感情を内に押し留めたように、ひたすら研究に没頭。
あの光景を見て、気でも狂ったのか。
それとも、あの光景を見て、尚更兵器活用ではなく科学の為に…と、邁進するように思ったのか。
異常な考えまで。次の原爆は京都に落とされるらしい…という噂。比叡山に登り、その頂きから京都に原爆が落とされる一部始終を見て、記録したい…。
(尚、史実ではこの異常な考えを発したのは荒勝だとか)
ラストシーン。アインシュタインと脳内対話しながら焚き火を見つめる。
焚き火。“発熱”という原爆開発に於いても基本で初歩的でもある物理学。
原爆もここから生まれたのかもしれない。
新たなる力、新たなる物質、新たなる恐怖、新たなる未来、新たなる未知…。
科学という世界。
何故人は時に科学を通じて未来が拓き、時に愚かな過ちを犯すのか。
答えなどない。
一度足を取られたら抜けられない底無し沼。
しかしだからこそ科学者たちはいつの世も、科学を追い続ける。
知ってる人は知ってるし知らない人は知らない実話
原爆は他にも陸軍が仁科芳雄博士にやれせてたのがあるが同様だったろう。
海軍は京大にやらせた。
どっちみちあのペースでは原料のウランが無尽蔵にあったとしても10年掛かってもできなかっただろうが、アホな事に陸軍と海軍は別々にやらせていた。他にもベンツの航空機エンジンも陸海別々にライセンス料を払って違うメーカーに作らせたりして当時のドイツにも笑われた。
何もかも無計画。そんな翻弄された時代の科学者の苦悩と狂気がよく出ていた。
参考程度には見る価値ある映画だろう。
もう少し突っ込んだあれこれを期待したが、
話が発散するから絞ったのだろう。
ネタバレになるが最後の海水浴のシーンは結局
弟は出撃前に戦争が終わって助かったと言う事か?分かりにくい。
葛藤
戦争という抗えない状況を受け入れる者たち、一心不乱に科学の発展という名目に現実から逃避しようとあがく者たち、純粋に科学の発展のために身を投じる者たち、現実を受け留め自らを捧げる者たち、愛する者を思いやる者たち… 科学の発展は諸刃の剣… テーマがきちんと整頓されていたように思います。戦争は人から心身の自由を奪います。
キャストの方たちの演技が素晴らしかったですが、
個人的に母親という立場から、一時帰宅した裕之と、倒れかけるほど力が抜けた母親のふみが、ずっと目を合わせたまま裕之に支えられて体制を整える、あの数秒と、ふみが裕之を送り出す時、お互いが抱きしめたい衝動をこらえ、ふみが耳を触るという行動、その後の、じっとふみを見つめ、裕之の敬礼の手指が震える様が心に刺さったままです。
日本人は見なければならない
戦争に対して完全被害者の立場だと疑いもしない日本人が多く見受けられる今日。
この映画はその意識を覆してくれるものだと思いました。
大学生が人を殺戮する兵器を作っているということへの葛藤。
仲間の命が果てているのに自分は足踏みしているだけだという、葛藤。
広島を見て、自分たちの作っていたものの恐ろしさを知るシーン。
胸を打たれました。
正直平和ボケしてしまっている日本人に見て欲しい作品です。
ひろゆきさんが特攻して言ったのだと、遺書がある死に方をしているという点で伝えることが、本当に巧みだなと思いました。
もう一度見たい作品。
原爆研究より実のところは、原子力研究
ラストにNHKとでかでかとクレジットが入るので、NHK単体で製作が進められたように勘違いしてしまったが、ほかの企画と同じようにそんなことはないようだ。
ネットで調べると、映画化までの道のりは簡単ではなかったらしい。監督脚本の黒崎さんへのインタビュー記事を読むと、ハリウッドのプロデューサーのコウ・モリ氏との出会いが大きかったとか。
アメリカ側視点から見れば、戦争中、日本が原爆開発をしていた事実を映画化するのは、彼の国の我が国への原爆投下についての正当防衛をより強く立証することになる。
そして次に、残っている資料が少なかったこと。
荒勝研究室のことは、実際に京都帝国大学に存在していたことはわかっている。
しかし戦後間もなく、GHQにより資料や研究施設は徹底的に廃棄(没収か)、破壊されたらしい。
あと、本作品ではまったく触れられていないが、東京の理化学研究所(大河内正敏)でも陸軍主導によって同様の原子爆弾の研究が行われていたらしい。そしてこちらの方の研究も京都同様、物資不足と海外からの研究成果を知らないせいで、難航し、とても原爆を製造できる段階ではなかった。
結局のところ、日本は原爆を開発するには資源的にも時間的にも無理だったということだ。
戦後、76年でほぼすべての関係者は、亡くなっている。だからこそ可能になった本企画なのだと思う。
一方で、すべてが風化して忘れさられようとしているこの時に、昔のことに思いを馳せる意味はまだ十分ある。
自分たちが作ろうとしていた武器は、数発で一国を滅ぼすだけの膨大なエネルギーを秘めた怪物兵器。
どこまでそのことを認識して開発していたかはわからないが、少なくとも研究所長は、この爆弾はこの戦争には間に合わないということは熟知していたはずである。
そして、おそらく広島に原爆が落とされる前から、アメリカが原爆を開発していることは知っていたと思う。アインシュタインから教えを受けているなら当然だ。
田中裕子演じる母親が、自分はここに残ると言ったとき、お前は比叡山から私の死ぬのを見物しなさいとまでは言わなかったのは、息子の想像力を試していたのだと思う。このシーンは見返したい。
でかいおにぎりを比叡山山頂で食いながら、シュウはなにを考えたのか。
それは、76年後に、生きている我々が日々忘れてはいけないことだと思う。
田中裕子が出征してゆく三浦春馬の右耳に触れる時、戦時中の母親たちの無念がにじむ。
戦時中の昭和天皇を演じたこともあるイッセー尾形さんが陶器職人を演じる。
見て良かったけど話にまとまりがない。
日本でも原爆開発を行っていたというあまり知られてない事実を基にしているのは良い。
ただ、色んな要素や人物を詰め込みすぎて小話の集合体で全体のストーリーが散漫になってしまっている。
最終の完成形がイメージ出来ないまま沢山撮影して編集がうまくいかず唐突で不自然な繋ぎのシーンが多くなったのかなと感じてしまった。
最終的に教授が科学至上主義のマッドサイエンティストで柳楽優弥は一歩手前で踏みとどまるように描かれていて諸刃の剣である科学と人間はどう関わるべきかとのテーマだろうが、それなら主人公は教授で良くない?
役者の演技は凄く良くて心に残るシーンも多かったし感想を誰かに話したくなる良い映画だからこそ惜しい。
一番問題なのは教授がマッドサイエンティストとして最後には実際の写真まで出して描かれているが最近のNHKスペシャルでは実際には否応なく原爆の開発に方針転換して広島の調査の後には自分の研究を悔いていたとの内容だった。
いくら本人は亡くなってるとはいえ一族の方の名誉に関わる事なのでここまで断定的に悪く描くのはどうかと思う。
想像力を働かせて…
思うように研究が進まなかったり、自宅が強制取り壊しにあったり、
皆が生きたいように生きられなかったあの時代。
それは、清水坂の陶芸家も同じ。
本当なら釉薬の味わいのある作品を焼きたい。
でも日々作っているのは、真っ白な骨壺。その挙句に…。
陶芸家のエピソードにグッときました。これも当時の市民の日常。
研究室のシーンが多いけれど、端々に想像力に訴える場面が描かれています。
裕之が戦地でどれだけの辛い日常を送っているかも、
具体的に描かれることはないけれど、ここも見る側の想像力。
三浦春馬さんは「戦後生まれのスタッフと演者による作品から
大きな想像力を伝えることが、今後あってはならない大きな流れを
始めさせないきっかけになるんじゃないかということを、
どこか信じていたい」と語っていました。
その言葉をしっかりかみしめて、見ることができました。
母親目線で見ていました
この時代の若者も青春はあったのだけど
「お国のために子どもをたくさん産んで捧げるのが夢」とはしゃぐ女学生を見て、大人がそうさせてしまった。
「教育が大切」と教師になると未来を語る、世津。
目の前の事に必死で未来のことは考えられなかった修と裕之。田中裕子演じる母親は3人を海に遊びに出す。
田中裕子の母親役が印象的だった。
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