「辛らつすぎますか?」秘密への招待状 Puti Nakiさんの映画レビュー(感想・評価)
辛らつすぎますか?
I'm not coming back without a suitcase full of money.
本作品『秘密への招待状』のオープニング・シーケンスを見たとたん... インドの宗教施設の真上を通るドローンによる空撮から、カメラは子供たちと一緒になって瞑想をする一人の女性を捉えている。髪は300~500ドル程マンハッタンでは掛かりそうなパツ金のショートヘアーは丁寧に刈られ、手入れの行き届いた爪にそれを輝かせるように彼女の肌は、透き通るほど七難を隠し、日焼けの日の字もない。 ここはインドなのか⁉
そんなイザベラの容姿は別として、宗教施設の真上をドローンを飛ばす、神経の細かさの無さには、一事が万事という事。それは宗教を知らず、理解できない自身だからこそ、違和感を感じてしまう。
この映画『秘密への招待状』は、デンマーク出身の映画監督スサンネ・ビアによる2006年公開の映画『アフター・ウェディング』のリメイク映画で... 久しぶりにデンマーク映画界にオスカー外国映画賞ノミニーをもたらした映画として、それにふさわしく主演のヤコブをデンマーク映画と言えばこの人...「北欧の至宝」と呼ばれ、また映画の功績からフランスと本国デンマークから勲章を受賞しているマッツ・ミケルセンが演じていた。
次のプロットでは... これは差別的なシーンなのか、考えさせられる。
本作『秘密への招待状』では前作にあたる『アフター・ウェディング』とジェンダーの設定を真逆にしている。つまり入れ替えている。
ヤコブ(男性)➡イザベラ(女性)、ヨルゲン➡テレサ、ヨルゲンの妻ヘレネ➡イザベラの夫オスカーというように
そんなヘンテコ演出の一例が... 2006年の映画では、貧民街でヤコブがトラックの荷台から食事を配るシーンで息を切らせながら群れのように集まり、皿を差し出す人々に彼は必死になって配食をするのが精いっぱいで、多くの人がありつけず彼は髪を引かれるようにその場を後にする。本作のイザベラはマイペースに配り、緊張感のかけらもなく、施設までの帰り道でゴミくずで臭ってきそうな貧民街を舐めるように映す前作とは違い、その大事な部分を本作は全てカットしてあっさりと描いている。
Is it because the houses are far apart that the people are far
apart? 2006年の映画より...
映画としたら、過剰なアメリカの富が第三世界の貧困に対して一見して無関係であるように映り、さらには第三世界の貧困に対する主要な解決策となる金銭的な援助を申し出るヒューマンドラマと見えるかもしれないが...
バート・フレインドリッチ監督の映画製作には、情報を慎重に精査した描き方をしていて、奇妙なほど穏やかなシチュエーションのビジュアル化をし、また、重圧的なプロットが映画を象徴しようとすると逆に彼の自意識過剰な性格からか観客を遠ざけるために観客と映画の間に距離を置いてしまっている。
映画全体がフロイトが提唱するスーパーエゴだらけの登場人物の自己欺瞞の為に否が応でも感傷的で甘ったるくて、その過剰な優しさが映画を見ていくにつけ鼻につくようになり、また吐き気を催すような演出となっていく... 言い過ぎです。失礼
その表れが...
二人の子供が出てきたとき、てっきりジュリアン・ムーア演じるテレサの8才になる孫と思っていたら、彼女の双子の息子たちって、まさかのエ~ェ!!! 双子だし、生理学的に無理だし、旦那役のビリー・クラダップは8才年下だし、イザベラ役のミシェル・ウィリアムズにいたっては、ギャップが20才だし、何よ!? だから無謀な若作りをしちゃっているのね! 言い過ぎです。 またまた失礼
映画も80分を過ぎようかとした時、ジュリアン・ムーアが事のてん末をイザベラに告白する場面になると... この映画そのものが、スーパーエゴの塊のいい子ちゃんを描いている、あたかもジュリアン・ムーアのパーソナルPVと化し、すなわち彼女自身を持ち上げる為の "ads" 的映画になってしまっている... それもそうだ、何故って?何故って! この映画『秘密への招待状』の製作・脚本・監督を務めたのが誰あろうジュリアン・ムーアの現在のご主人のフレインドリッチ監督という事。
Every acquaintance, every friend, every person who has a
place in your heart, it is the time with them that really
means something. Nothing else matters.
ヨルゲンの妻ヘレネをイザベラの夫オスカーに変更したことで、この映画がバイオロジカル・マザーの設定を放棄したことで話がおかしくなり、その上にツジツマが合わなくなり、映画自体がチンケなものになっている。
母性の表現は性差別に繋がるのか? ...疑問アリ
Why Are Films Failing The Bechdel Test When TV Has Progressed? 世界的最先端ファッション誌で知られる VOGUE の2020年7月の電子版の見出し記事より
この監督さんは何故、自ら映画を台無しにしたのか?
ベクデル・テストという簡単に言うと映画の中で何人の女性が台詞や登場人物として出演しているかをジェンダー・バイアスについての度合いを調べる事。
ジェンダー・バイアス: 社会的・文化的性差別あるいは性的偏見の事。
いま日本でのタイムリーな話題そのもののと言えるかもしれない。
ベクデル・テストに失敗して映画公開を見送られるのを回避するためにジェンダーを入れ替えたとされているけど本作をご覧になれば、その体たらくぶりはジェンダー・バイアス以前の問題だと思える。
先日鑑賞する機会のあったジャッロ映画『ファブリック(2019)』にジル役で出演していたシセ・バベット・クヌッセンが前作『アフター・ウェディング』ではヨルゲンの妻ヘレネに扮していたけど、実の娘の結婚式とは知らずに結婚式会場で元妻のヘレネを見つけたヤコブが、凝視をし睨みつけている後に一筋の涙をマッツ・ミケルセンが流す場面は、見ているだけでも心の冷たいあたしでも胸が張り裂けそうになり、その会場を後にしたヤコブの後を美人さんが追いかけるのは良いけどヤコブが無下に誘いを断るシーンは20年の時を経ても未だに彼女のことを愛している象徴的で感動を呼ぶものとなっている。
シュガーコートで包まれた映画を見る大前提として言えるのは、そして本作品を楽しみたいココロがあるなら、前作のマッツ・ミケルセン主演映画『アフター・ウェディング』を予告編ですら見るのを諦めたほうが無難だと忠告をさし上げる。
余計なお世話さまってか⁉ そんな映画です。