ミゾロギミツキを探してのレビュー・感想・評価
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救済が円環でありますように
救済、という言葉について素朴に考えてみる。自分の中にある澱が外的な要因によって解消される、という図式が思い浮かぶ。たぶん誰もがそうなんじゃないか。
でも、これというのは主観的なものの見方において救済を捉えた場合、だ。救済の形は他にもあると思う。例えば、澱を抱えた「私」が、同じように澱を抱えた「誰か」と関わる。「私」の気持ちは晴れないけど、「私」との関わり通じて(あるいはそれが間接的な奇貨となって)「誰か」の澱は解消される。客観的な視座に立てば、これも一つの救済だ。
本作は後者的な意味においての救済が果たされる過程を描いた作品だと思った。
そこには震災によって娘を喪った遺族がいる。娘の父親とは母親は津波に呑まれた娘の行方を知りたいと願い、東京の霊媒師を頼る。そして娘が深い海の底に沈んでいることを知る。知ることは彼らに多少なり慰めを与えたかもしれない。しかし二人の表情は晴れない。
新幹線まで時間を持て余した夫婦は上野公園に赴く。そこで茂みに倒れた若い女と出会う。彼女は寿命を迎えたハムスターを木の下に埋めに来たのだという。鬼ころしをしこたま飲んで酔い潰れた彼女を夫婦は手厚く介抱する。そして最後にミカンを手渡す。若い女の柔らかな表情が印象深い。
家族の喪失とペットの喪失。次元は違えども同質の喪失を抱えた二者の出会い。別にそれが直接的に素晴らしい作用を生み出したわけではない。娘もペットも生き返ることは二度とない。しかし少なくとも若い娘のほうは、夫婦の無償の愛を通じて回復の兆しを見せる。
次のシーンでは先の霊媒師のもとに新たな客がやってくる。おそらく死んでしまったであろう家出娘の行方を知りたいという母親。しかし霊媒師は家出娘の魂はどこにと見当たらないという。つまり娘は生きているということ。安堵の涙を流す母親。彼女の娘が誰であるかは言うまでもない。
夫婦にはもう1人娘(つまり妹)がいて、彼女は東京に暮らす姉の元彼を訪ねる。彼は姉の死後、別の女性と婚約した。妹はそれが気に食わない。彼女はどうにか彼や彼の新妻に一矢報いてやろうとするが、うまくいかない。
上野駅に戻ってきた妹は「何もなかった」と自己暗示のように何度も繰り返す。しかし本当に何も起きなかったのか?先の新妻は彼女に投げつけられたミカンを美味しそうに頬張っている。
明らかに再生への何らかの道筋がそこに兆している。死のつらさや忘却への憤りは今すぐには解消されないが、彼らの歩んだ道程は世界を少しずつ浄化している。それはいつか円環を成し、どこか予想外の方向から彼らを救済するのだと思う。
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