大地と白い雲のレビュー・感想・評価
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近代化と民族の多様性
この世界には、多種多様な民族があり、それぞれに固有の文化がある。あらゆる場所で近代化の波がやってきて、伝統的な暮らしは変わりゆく。
しかし、近代化と伝統的な生活様式は、しばしばバッティングする。それに対して抗うのか、近代化の波にのっかるのかは、コミュニティの住人たちの間でも対応が別れる。そこに変化の時代特有のドラマが生まれる。
本作の場合は、ある夫婦間でその対応が分かれる。主人公の夫は、よりよい暮らしを求めて遊牧民の暮らしに欠かせない羊を売る。対して妻は、このままの遊牧民の暮らしを望む。
ここでしか見られないような広大な草原の風景は実に美しい。対して近代化の象徴として近隣の都市も登場するが、その風景はよくある地方都市の風景である。近代化は、生活を豊かにし自由にもするが、生活を世界中で画一化する。多様性を尊重するが、その豊かな暮らしを選ばせることによって、伝統文化を失わせることにもつながっている。
チベット自治区を舞台にした『羊飼いと風船』では、男が伝統文化を望み、不本意な妊娠をした女性が近代化を希求する。2つを合わせてみると、伝統と近代化の衝突について、非常に深く広く考えさせられるので合わせて観るといい。
(原題) 白雲之下 Chaogtu with Sarula
何処かへ行きたい夫と今の生活を愛する妻。
夫の身勝手さと都会への憧れに腹が立つが、大草原に広がる果てしない空の下馬と暮らす人々、激変する時代の波、内モンゴルの空と大地が美しく、一組の夫婦の喪失と再生の物語でした。
リアルを描きつつ、問題の本質を隠したプロパガンダか?
とてもきれいなフルンブイル草原が舞台となっていて、それを観ているだけでとても気持ちよく、また実にリアルに今の南モンゴルの現状が描かれていました。馬をオールガでつかまえるシーンは実にモンゴルらしく、しばらく行けていないモンゴルがとても身近に感じられました。
また、モンゴル語で撮ったことは評価に値するかと思います。今後、モンゴル語映画が中国で撮られるのだろうか?と大いに危惧しているところですので…。
しかし…
結論から言ってしまうと、それも敢えてきつい言葉を使って表現すると
「所詮、漢民族監督が自分のノスタルジーをモンゴル草原に重ねて表現した程度の映画」だという感想に行き着きました。
webサイトの監督の言に
「「⼤地と⽩い雲」はお互いに異なる希望を持ちながら内モンゴルに暮らす、チョクトとサロールという平凡な夫婦の⽣活に起こるジレンマを描いた物語です。妻のサロールは夫であるチョクトと共にずっと草原で暮らしていくことを望んでいます。⼀⽅で、チョクトは遊牧⺠であることを誇りに思っていますが、その伝統が崩れてきている中で、⽺飼いとして、また夫としてこれまでのような役割を果たすことが難しいと思い始めているのです。このように、個⼈的な幸せの追求と、社会的な属性が調和せず、対⽴する背景には、社会が引き起こした⽣活様式と⽂化的な価値観の急速な変化に遊牧⺠が適応できていないことを⽰しています。」
というのがあります。
この言葉自体が、南モンゴルが置かれている状況に対して、無知無関心であることを表していると憤りまで感じます。
「個人的な幸せの追求」が漢民族中心の価値観と国家政策によって、追求自体ができないようにさせられてきた事実や、「社会的な属性が調和」できないようにモンゴルでありつづけられないようにしてきたこと、そして、これらはモンゴル人たちが主体的に生き方の決定権を持てない「社会」によって意図的に引き起こされた「生活様式と文化的価値観」の略奪行為であって、「遊牧民が適応できていない」のではなくて、「遊牧民であることを奪い」とってきたのだということ…。
主人公たちが現代社会の中で揺れ動くさまを淡々と表現したとだけいえば、彼らの選択や決定ということが、彼らが主体的に行ってきたことになるのだが、彼らを取り巻く背景を「社会変化」と単純なところにおとしてしまっていることに、大いに憤りを感じるんです。
映画は監督が作り出すファンタジーであり、芸術作品なのだということですから、ま、それはそれでいいのだと思います。
が、彼は自分自身をドキュメンタリストと評しています。
となると、話は違います。
この発言を聞いて、私は
「なーにがドキュメンタリストだ!」
って怒鳴りつけたやりたい気分になりました。
それと…フンフルトゥの曲がなんの説明もなく、言葉のわからない人にとってはモンゴル語なのか?と思うでしょうに、トゥバ語の歌が使われます。作中で、またエンディングで。
なんぞ深い意味があるのか?と思いもしましたが、インタビューを読むに、なんてことはない、気に入ったから…なわけです。
つまり、この監督にとっては、モンゴル文化もトゥバ文化もどうでもいいんです。自分の作品の一部として利用できる材料でしかないんでしょう。それぞれの文化の担い手たちにとって、大切に思う小さな一つ一つの文化事象、物質、言葉などなどすべては、ただの記号にすぎないんです。
このあたりに、中国というところの異文化に対する姿勢を感じてしまいましたね。
都会と草原や、変化を求める男と理解できない女という対立項でこの映画は作られている。映画はそのように作られています。
しかし結局の所、あらがうことのできない流れ(実に表面的な)の中で、モンゴル的な生き方は失われていくことが、ある意味、肯定的に描かれていると思いました。
主人公男性が「両親といたときは、オトル式遊牧で長距離を移動していたのに、いまではトル(本来は網や袋などを表すが、映画の中では柵の意味。現在、南モンゴル地域で放牧地を柵で囲いその中でだけ牧畜を行うことにされている。)から外に出て行けない…」といったことをいいます。このセリフは、状況を知るモンゴル人であれば、限られた地域での牧畜のみが許されている環境への文句であると感じるでしょう。監督が意図してこのセリフを言わせているのかわかりませんが…。もし、彼らを理解して言わせているのであれば…。
やはり南モンゴル地域を舞台にした作品であるからには、その土地の歴史やとりまく環境、特にここ数年の文化ジェノサイド政策を切り離して観ることはできません。
やむを得ない社会変化の中で、様々な価値観やライフスタイルが生まれてきて、遊牧民たちもその間で揺れ動いている…
このレベルで鑑賞するなら、「わぁ、きれい!わぁ、すごい!」で観られることでしょう。実に美しい映画でした。
でも、その程度で語ってもらうには、流されてきた涙や血が多すぎるんです、ここは。
こういう映画が今後量産されていくことで、モンゴル社会や文化が漢社会、文化の一部として扱われ、それが当たり前となっていくことに大いに危機感を感じます。
かなり、酷評かましましたが、再度、総括します。
「漢民族監督が、モンゴルをネタにして、ドキュメンタリストを名乗りながら、対象が抱えている問題の本質を無視し、もしくはそこに目を向けさせないようにしつつ、異文化のそれぞれの担い手の思いは二の次で、切り貼りして作った、見た目は美しい映画」だと思いました。
ただ、最後にひとつだけフォローをすれば…
ま、私が思うようなことを逐一盛り込んだとしたら、制作自体ができなかったかもしれません。監督がどんな人が直接知らないので、映画の作られ方から想像するしかないのですが、でも、インタビューを読むに、正直、なんだ、そんなもんかね…って感想です。あれ?フォローになってないぞ…。
歌が上手い女房
本当はこの映画を見るつもりはなかったんだけど、竹橋あたりから時間かかる場所に行けなくて、ウン10年振りに岩波ホールへ。「ファニーとアレクサンドル」以来かも。
モンゴルの草原が広い! 空、雲の形、風、雷の音、虹。うーん、大地だー。自然だー。スーホの白い馬の世界だー。
そのだだっ広い草原がつまらないと思う、夫のチョクト。妻のサロールはこの土地が好きで、今の暮らしに満足している。チョクトはたびたび都会に出かけてしまう。サロールは腹を立てるが、惚れた弱みで許してしまう。が、最後は…?
馬に乗るチョクトがバイクと並走したり、馬追い(これ、ゲームかなんか?)で縄投げたり、時々かっこいいところもあるけど、たいがいはボーっとたばこふかして、ダラダラしてる。まだ大人になりきれないというか、夢ばかり見てるというか、はっきり言ってしょうもない。
妻のサロールは、お尻の下まで届くほどの長い髪で、歌がめっちゃ上手い(歌手らしい)。ほっぺが赤くて笑顔がかわいい。乳搾りの時に牛に話しかけたり、子羊を抱いたり、動物に優しく、かいがいしい。
モンゴルといえばゲル。テントの一種だけど、なかなかの広さ。ベッドも食卓も置けるし、タンスもあった。テレビはなかったっぽいが、ラジオはある。そして、ここにもスマホの波が。モンゴルのかつての遊牧スタイルは消え、柵で囲った土地に定着する。モンゴル人も変わらざるを得ない。チョクトとサロールを、新旧の価値観になぞらえているのか。古き良きものを惜しむような、サロールの歌声が胸に迫った。あと、ホーミーは、不穏な場面のBGMにけっこう合うもんだね。ゲロゲロ〜。
佳作なれども、観客少なし。残念である。
評価が低かったのでどうかなと思いましたが、観てみると大変よい作品でした。題材は特に新しいものではありませんが、古い世界と新しい世界との対比が、風景、住民の生活、夫婦間の葛藤などを通じて上手く描かれていました。周知の事実ですが、中国では開放路線によって市場経済が急激に拡大し周辺部まで都市化が進みました。それによって遊牧民の伝統的生活にも変化が及びます。新しいものに魅力を感じる夫と伝統的なものに安心を覚える妻との葛藤がメインの題材です。そのなかに、牧草を他の遊牧民の羊に食べられて怒る青年の態度に、共同体意識から市場経済的価値観への変化が表現されるなど、工夫が凝らされていると思いました。日本で言うなら、漁村に巨大な原発施設が建設され、漁師の息子がそこに勤め始める。一方で漁業を続ける青年もいる。村祭りで二人が一緒になる。そして考え方の違いによってぶつかり、喧嘩になる。そんな映画があったような気がします。実際にあったかどうかは確認していませんが、この手の映画は、高度成長期に多く作られたのではないでしょうか。最後のシーンで、主人公である夫が草原を移動してきて、目の前に巨大なビルが立ち並ぶ都市が現れます。あの威圧感が締めくくりとしてのメッセージだと思います。住民を翻弄する国家プロジェクトへのささやかな抵抗の表現ではないかと思いました。
景色は綺麗
モンゴルを旅した気分を味わいたくて観てみた。
大自然や、馬を乗りこなすシーン、歌などは大変素晴らしかった。
最後が尻切れとんぼのような感じ。
夫の気持ちも分からないでもないが、家族となると疲れそう。妻も若いのに、ちょっとかたすぎる。と、思いつつ、日本とは文化も異なるからこんなものかな。
ワイドスクリーンは楽しめたが・・・
「シネスコ」サイズを生かして、広大な草原を背景に構図を切り出す、あからさまな“映像美”を狙った作品だ。
緑なす草原は、冬には一面の雪原へと変化する。「馬追い祭り」も映される。
馬を走らせてバイクを追うシーンでは、“馬がバイクに追いつく”という素直な驚きとともに、上空からの撮影に見応えがある。
ライティング(あるいは撮影時刻)には特徴があり、不思議な光に満たされた作品でもある。
しかし内容はというと、同じことの繰り返しが、延々と続くような感じで困惑させられる。
しかも、主人公を間違えているのではないかと思う。夫のチョクトが描かれることが多いが、妻のサロールの視点から描くべきではなかったか。
というのも、チョクトのキャラは単純で一貫しており、説明不要だ。「こんな時代に、自分だけが、草原の真っ只中で羊を追えというのか?」だ。しかも隣との境界は柵で囲われて、本当の“遊牧”すらできない。
しかし一方、サロールがなぜ草原を離れたくないのか、理由が分からず、まさにそのことが、本作のストーリーの弱さに直結している。
同じことの繰り返しを描くなら、その中で少しずつ変化していった、サロールの心の揺れに密着すべきだと思う。
変わりゆくモンゴルの社会を描きたいのだろうが、登場人物を限定してるわりには、底の浅い残念作である。
見るものなし…。
エンドロールの最後に、「この映画を亡き妻に捧げる。彼女がいなければ、この映画は無かった。」とテロップが出る。
そうであるならば、この映画は無くてよかったんじゃないだろうか。
友達でも家に呼んで上映会でもしたらいい。美談を装い、良作を装った、駄作と言える。
今、中国は中国共産党による民族浄化とも言える弾圧が行われている。ウイグル、チベット、そして、内モンゴルしかりだ。
映画というものが、中国共産党の検閲を受けず公開される訳もなく、この映画も内モンゴルで人々は普通に暮らしているというプロパガンダ的な意味があるのだろう。
東京国際映画祭で賞をもらってますか。
遊牧民を続けるか、都会に出るかというテーマに終始するが、雰囲気でなら見れるのか、つまらないと思うのか、このあたりは見る人次第なのかもしれない。
中国の映画界では、第6世代と呼ばれているのだろうか。個人的な思想はわからないが、結果的には中国共産党の一翼を担っているところに悲しさを感じずにはいられない。
2019 32nd TIFF
都会に憧れるダメな夫と地元をこよなく愛す献身的な妻の物語。
大自然の美しさと迫力、歌声のすばらしさに、とにかく感動する。
ストーリーに気持ちをやってしまうと、ダメ夫にとにかく腹が立ってしまうので、できれば景色だけを見ていたい気持ちだったけれど、たまにポロリとしてしまうから・・・
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