「視線と表情で描く究極の恋愛表現!!」燃ゆる女の肖像 バフィーさんの映画レビュー(感想・評価)
視線と表情で描く究極の恋愛表現!!
まだ限られた職業でしか、女性は社会に居場所を見出すことができなかった時代の中で、多くの女性が社会進出のきっかけとなったのが画家という職業でもあったことから、マリアンヌは18世紀のフェミニストでもあるのだ。
しかし、固定され、限られた概念の中では、まだまだその先に進むということは、未知の領域であり、人間として、女性として許される行為なのかということも判断が難しい環境だった。
時代を通してみれば、同性愛というものは、18世紀以前から存在していたものではあるのだが、芸術や歴史の中で知っていることと、自分の身に起きることでは、全く違ってくるだろう。
マリアンヌはフェミニストではあっても、少なくともエロイーズと出会うまでは、異性を愛し結婚をすることへの反発はあったものの、レズビアンではなかったように思えるし、そもそもその概念自体がマリアンヌの中には存在してなかった。
それがエロイーズと出会い、肖像画を完成させようと、表情や仕草のひとつひとつを観察するうちに、マリアンヌの中に何かが芽生えてくることが伝わってくる。その伝え方というのが、映画的でわかりやすい表現などによるものではなく、マリアンヌとエロイーズの視線や表情からなのだ。
そこには、女性同意の恋愛を描いているという表面上的なものではなく、人間が人間を愛する瞬間を絵画のように、詩のように、美しい景色をキャンバスにみたてて描いていくのである。
手が触れるかもしれない、唇が触れるかもしれないという緊張と恐怖、愛を交わす喜びが自然と口元に現れる。
細かい視線や表情だけで、どうしてここまで人を愛すること、愛の誕生の表現が可能なのかというと、勿論、今までにも女性同士の恋の芽生えを描き、自身がレズビアンでもある監督のセリーヌ・シアマや撮影のクレール・マトンの力、そして俳優達の演技力もそうなのだが、監督とエロイーズ役のアデル・エネルは、かつて実生活において、恋愛関係にあった間柄なのである。
本編でみせるマリアンヌの眼差しは、正に監督自身の眼差しでもあるのと同時に、アデルの目線も監督を見る眼差しなのである。
結果的に別々の道を歩むことになり、別れてしまった2人にとって、肖像画を描き終えることは、愛に終わりがくるという、マリアンヌとエロイーズの心情に重なるというメタファーともなっているのだ。
美しい景色と、優しい波や風の音が凄く心地よい作品でもあることから、寝不足では観ないことをおすすめしたい。視覚、聴覚的にかなり眠気を誘われる作品である。