ヨーヨーのレビュー・感想・評価
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【”そして、男は少年時代に憧れた億万長者の父の大邸宅を再び取り戻した。”ピエール・エテックスがサイレントからトーキーへの移行も盛り込んだ夢と希望の物語。】
■世界恐慌で破産した大富豪(ピエール・エテックス)は、サーカス団の女性曲馬師エルと彼女との間にかつてもうけた幼い息子と共に、地方巡業で暮らしを立てることになる。
やがて、ヨーヨーという人気クラウンとして成功を収めた息子は、父が所有していた城を取り戻そうと躍起になる。
◆感想
・この、一カ月、それまで全く知らなかったピエール・エテックスの短編、長編を愉しんできた。
・彼の作品は、特に短編が好きであるが、この長編第二作は出色の出来であった。
・彼の作品には、常に初期チャップリンとバスター・キートンのサイレント喜劇に対する敬愛に基づいたコメディセンス溢れる諸要素が伺える。
勿論、この作品もである。>
ピエール・エテックス監督。フランスの喜劇。 前半は無声映画。 富豪...
ピエール・エテックス監督。フランスの喜劇。
前半は無声映画。
富豪さんの暮らし模様、お城で数十人の召使いを従えて。
偶然出会ったサーカスの一団に、元カノと息子がいたと。
世界恐慌で皆が無一文になって、富豪の家も召使も無くなり。
以降、会話ありの映画。
サーカスの一団として巡業生活をする様子。
息子ヨーヨーは、父が手放した城を取り戻したく、巡業で稼いで成功して。
それにしても、各場面ごとに、いちいちクスリと笑える要素が詰まっていて。
チャップリンを見てるような感覚に近いかな…。
静かなのにじわっとくる、あっという間に話が進んで行く映画でした。
オープニングのドラムでノックアウト!
とにかくオープニング!メチャクチャ、カッコイイ!
のではあったのだが…
ちょっと冗長だったかな。
サイレント風の前半と後半からトーキーという二部構成は洒落たアイデアだったし、ギャグも最初のうちは良かったが(ドアの音!)徐々に切れ味(というか“間”かな?)イマイチなのも増え、不必要に多かった。これは好みかねえ?
やはりスラップスティックは、ちょっとでも度を超えるとシラケてしまう。天才的なバランス感覚が必須だと、つくづく思ってしまう。
ジャック・タチに迫るほどの洗練さも期待してはいたのだが、タチほど(殆ど狂気と紙一重)の磨き上げた”Parfait!!”な完璧主義者ではなかったようだ。
というか、系譜としては、タチというよりは、チャップリンか。
あまりにスラップスティックやサーカスが好きすぎて、色々と詰め込み過ぎた感は否めない。
オープニングが最高だったゆえに、ちと期待は外れてしまった訳なのだが、しかし、なんだかんだで、結局は好きになってしまう映画ではある。
やっぱり、あのノスタルジーで、サーカスで、あのテーマ曲!
どうしたって琴線に触れてしまう。
1920年代から60年代へ親子2代に渡る話ゆえ、長くなってしまうのは仕方なかったとしても、もうちょっと編集でテンポよく工夫して欲しかったよ。
道化師エテックスの面目躍如! シンメトリーとサイレントの呪縛を破って始まる家族愛の物語。
タイトルロールから、引き込まれる。
クラウンの顔のパーツが、ピクトグラムに変じて、
サーカスの団員として動き出す。
なんて洒落た演出!!
素晴らしかった。とくに、前半は傑作。
終わりかたさえ、もう少し納得のいくものだったら、星をあと半分つけてもいいくらい。
先に観た『恋する男』『健康でさえあれば』と比べても、段違いで良かった。
たぶん、「クラウン(道化師)」という、ピエール・エテックス自身を語るような題材だからだろう。
映画を撮る少し前に亡くした父親への想いもあったかもしれない。
映画に、ぐっと息を詰めたような緊張感がみなぎっていて、かつ、登場人物に向ける視線がどこまでも温かい。シニカルに構えていた先に観た2作とちがって、キャラクターに血が通っているのだ。
だから、常に「失敗」しかしない『恋する男』や『健康でさえあれば』のピエール・エテックスとちがって、ヨーヨー父とヨーヨーは、作中でそれなりに「いいこと」をたくさん体験するし、きちんとした「成功」を収める。ギャグにおいても、「失敗する」ギャグより、「うまくいく」ギャグのほうが多いぐらいだ。
周辺の人物についてもしかり。
『恋する男』や『健康でさえあれば』でのピエール・エテックスは、基本的に「疫病神」だ。
登場人物たちは全員、主人公のピエール・エテックスによって「迷惑をかけられる」存在でしかない。彼と関われば、必ず「痛い目を見る」。物を壊されたり、変な薬を呑まされたり、ひっくりこかされたり。常に周りは踏んだり蹴ったりだ。
だが、『ヨーヨー』でのピエール・エテックスは違う。
ヨーヨー父&ヨーヨーは、「周囲を幸せにする」存在だ。
彼らに関わった人間は、彼らを好きにならずにはいられない。
彼らと出会った人間は、みんながその顔に笑みを浮かべる。
だから、この映画には「幸せ」と「愛」が、そこかしこに偏在している。
やってるギャグとかネタとかは他の作品と似たり寄ったりかもしれないが、そこにキャラクターへの「愛」が加わるだけで、映画はこんなにも生き生きと魅力を放ちだすもんなんだな、と。
主人公の体の動きが「見やすい」というのも、『ヨーヨー』の特徴だ。
ちょっと多動の変な人みたいに、無理やりどたばたしまくっていた先の2作と比べて、主人公(とくにヨーヨー父)の動きがぐっと抑制されてソリッドに固められている分、体線にブレが少なく、すっきりと身体をはったギャグを楽しむことができるのだ。
崩してどたばたオーバーにやるより、常に背筋を伸ばして最低限の動きで平行移動したほうが「笑い」がとれる。おお、なんか「狂言」の世界みたいっすね。
それと本作においては、魅力のある単一のテーマ音楽を、(ときに変奏しながら)徹底的にかけつづけるという、チャップリン以来の「勝利の法則」が貫かれているのも、成功のポイントだろう。
宮崎駿の『風立ちぬ』とかもそうだったけど、いったんメロディを客に叩き込んじゃうと、あとあと有利なんだよね。見せ場でかかるだけで、なんかもううるっと来るから(笑)。
ー ー ー ー
物語は、ピエール・エテックス扮する大富豪の日常からスタートする。
宮殿か城のような大邸宅。
徹底的に「左右対称」に作り込まれた、セットとカメラワークと人々の配置。
この杓子定規なシンメトリーは、自由人としてのエテックスを捕らえる「檻」のような意味付けで、常に演出される。大富豪は、王様のような豪奢な生活を送りながらも、窮屈で自由のない日々を強いられているわけだ。
しかし、このシンメトリーの「檻」に、強烈な「憧れ」を抱く人間もいる。
それが、少年時代のヨーヨーだ。
曲馬師の母から産まれた、大富豪のおとしだね。
少年は、自分が生まれていることを知らずに生きている父親の屋敷に潜り込み、その豪勢な生活ぶりを目の当たりにする。左右対称に雁字搦めにされた王侯貴族のような大邸宅は、その日から彼の忘れられない思い出として胸に刻まれる。
やがて、大恐慌が起き、大富豪はその財を全て失い、路頭に迷う。
明け渡される大邸宅。ひとり、またひとり去っていく使用人たち。
でも、彼はへこたれない。
裸一貫、曲馬師の妻と息子の三人で、サーカスの世界で生きていくことに決めたのだ。
シンメトリーのセットとカメラワークから「解放」されたヨーヨー・パパは、最初はサーカスの一員として、その後は家族でドサ回りする一座のあるじとして、「シンメトリーにとらわれない自由な背景と自由なカメラ位置」をも獲得する。
でも彼は知らない。息子がいまも、かつて父の屋敷を訪ねたときに持っていた左右対称の宮殿の写真を常に持ち歩いていることを……。
シンメトリーとともに、作品を縛る「枷」として機能しているのが、「サイレント映画」としての枠組みだ。
大富豪は、いかにもキートンのようなメイクと動きで、無声映画の登場人物としてふるまう。
もちろん台詞もない。
ところが、大恐慌が起きて、家族三人での旅回りが始まると、なんと映画はトーキーへと切り替わるのだ(ちょうどその頃、実際に映画の世界はサイレントからトーキーへと移行している)。
おお、いかした知的なアイディア! しかもパンフによれば、エテックスはサイレント・パートは1秒12、16、18コマのサイレント・モードで撮影し、トーキー・パートの1秒24コマと差別化をはかっていたらしい。
このサイレント→トーキーの切り替えは、彼らが生きた時代の切り替わりの表現であると同時に、シンメトリーに封じられた生活からの「解放」と「自由の獲得」をも意味していたにちがいない(その割に、トーキーになってもヨーヨー・パパはほとんどしゃべらないのだが)。
ヨーヨー一座が、おんぼろのトラックに乗って、ヨーロッパを旅してまわるあたりの描写は、さしずめ良質のロードムーヴィーのようだ。
やってることは、子供に運転させたり、煙草吸わせたりと、まあまあめちゃくちゃだが(笑)、いかにも「芸人」らしい、愛情と笑いに満ちた、魅力的な一家の旅の日々が、丹念に描き出される。
学校に行けないぶん、家庭学習に力を入れるお母さんとか、結構これリアルにある話なんだろうなあ。とにかく、「家族愛」の物語として、観ていて胸がぎゅっと締め付けられるくらい、このへんのシーンはすべてがすばらしい。
あと、お父さんは基本クラウンなのだが、ちょっとしたマジックもやる。
僕はじつは某大奇術愛好会のOBなので、マジックにはちょっとうるさかったりするのだ(笑)。
エテックスの見せる技術は、本物だ。プロフィールに「奇術師」と入っているのは、伊達ではない。
おお、なんてきれいなカードの一枚だし!(パームの入れ方が僕が習ったのと少し違う)
バニケン(バニッシング・ケーン)からのフラワー出しの流れも自然だし。
ふだんから、ちゃんとステージにかけている人間の、熟練の手つきだ。
ほんと、多才な人物である。
それと、街の広場に「8 1/2時に、ザンパノとジェルソミーナ来る」の告知が出ているシーン。
もちろん、「8 1/2」はフェリーニの映画タイトルであり、ザンパノとジェルソミーナは、フェリーニの『道』の主役コンビとして出てくる旅芸人の名前である。
あそこは、今日一番、場内がどっと沸いてたなあ(笑)。
やがて、戦争が起き、成長したヨーヨーは従軍する。
(このへん、ちょっとチャップリンの『独裁者』を意識した小ネタが挿入される。)
ピエール・エテックスはヨーヨー・パパからヨーヨーに切り替わって登場。両親は物語からフェード・アウトし、しばらくは気配自体を断つ。
戦地から生還して、サーカスに戻ってくるシーンに登場するのは、全員当時活躍していた本物のサーカスのスターたちらしい。気心の知れた仲間たちを前に見せるエテックスの懐かしそうな笑みには、真実味があふれている。
大人になったヨーヨーの生きるエンターテインメントの世界は、彼が幼年期を過ごした牧歌的な時代とは、様変わりしていた。テレビの台頭だ。
世の中、なんでもテレビ、テレビ、テレビ。
そんななか、旅芸人のヨーヨーは尾羽打ち枯らして物乞い同然の生活ぶりを送っている……と思いきや、なんとこれ、テレビのコントの一場面。
ヨーヨーは持ち前の才覚を生かして、テレビ時代に適応し、ちゃんとスターになっていたのだ。
さらに、彼は興行プロデューサーとしても大成功をおさめ、会社の社長として秒を争う忙しさのなかで、莫大なお金を稼ぐようになる。
彼には、夢があった。あの、写真にこめられた夢が。
父親の喪った、あの城を取り戻す、という夢が……。
この映画で「惜しいな」と思うのは、終盤に入ると先の二作と同様の「バタバタやってるけど、どこか笑いにくいコントの集積体」に立ち返ってしまっているところだ。
彼が社長としてマヌケなセールスマンや仕事関係者たちと丁々発止やり合うシーンは、それでもまだ面白かった。とくに火がついたり卒倒したりの不謹慎ネタは鉄板でおかしいし、オープニングのクラウンの絵の伏線もしっかり回収されるし。
だが、終盤に延々と続く仮装パーティーのシーンは、個人的には結構きつかったかも……。
あと、ラストの展開も、個人的には、ちょっと教条的な方向で収めちゃったのかなあという気が。
息子のやっていることを「見ない」ってのも、さすがにどうかと思うし。
最後の流れも、それでじゃあどうするんだよ、とちょっと思わないでもないし。
あと、イゾリーナとの物語にも、もう一幕何か欲しかったかな。
とはいえ、ピエール・エテックスの代表作として世に恥じぬ出来で、大変面白かった。
よくぞ日本で公開してくれました。
というか、「道化師物」って独特のノスタルジーとペーソスがあって、ホントはずれのないジャンルだよね。日本にない独特の文化だけど。
いろいろ多岐にわたってやってたけど、エテックスってきっと、自分の本質はクラウンだとやっぱり思ってたんだろうなあ。
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