マクベス(2015)のレビュー・感想・評価
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女が産んだ人間にマクベスを倒す力は無い 原文ママ
本能寺の変が1582年だから、マクベスの初演が1601年と言うことは、シェークスピアが本能寺の変を知っていたとすれば、本能寺の変をリスペクトして書いた?!
野を彷徨うマクベスの前に青年が(?)
原文のママ
『残忍になれ。大胆に心を決めろ。人間の力を恐れるな。女が産んだ人間にマクベスを倒す力は無い。』
ネタバレ
マクベスの悲劇は
恐れおののき暴君とかして、
狂い
滅ぶ事じゃない。
あくまでも僕の仮説だが
『子供が出来ない事』じゃないかなぁ?
良かった
原作は未読。マクベスのあらすじも知らぬ儘視聴。最初は何故そうなったのか、等理解出来ない部分がありWikipedia等を見ながら視聴した。二回目はスムーズに物語が頭へと入って行きとても楽しめた。
次第に狂って行くマクベスとその妻。いや、妻は元々異常な所はあったのかもしれない。マクベスは王を殺したことによる恐怖で頭がいっぱいになりどんどん闇へと落ちていく、異常な世界観に引き込まれた。
処刑や戦闘シーンは見所。見せ方が美しい。妻の表情やマクベスの表情。魔女達は静かに囁く、それに一喜一憂するマクベス。
美しいと言う言葉が似合う映画。
マクベス
原作は読んだことありません。読んで見たくなりました。
冒頭、妻の異常性にびっくりさせられましたが、罪を犯した方の夫が壊れた。現場と夫を見ているうちに正気になってましたね。
罪を犯す前ってのは意外にワクワクするもの。それをいざ実行に移すと罪悪感で嫌になる。思い出さなくなるにはあまりにも時間がかかりすぎ、別の自分になりたいと思うのもよくわかります。
最後の私を殺しても数ヶ月には生まれ変わりがという適役のセリフ。それを普通の人間ではないとマクベスは捉えたのでしょうか?
あと仲の良かった戦友の息子。あの子は第二のマクベスとして魔女に選ばれたのかな?暴君としての。色々想像できますね。
どんなにがんばっても寝ちゃう・・・(泣)
まさかここまでとは。
大好きなマイケルファスベンダーなので、どんなにつまらなくても頑張って観てたんだけど、ものすごい睡魔に勝てず…
次にもう1本控えていた映画があったので捨て映画にして、寝ました。
ん~?
マクベスというシェークスピア劇、初めてでした。映像が美しく、俳優の熱演は素晴らしいし、セリフ回しがやはりすごいなぁとは思いましたが、いったいこの物語は何を観客に訴えたいのでしょうか。これほど有名な悲劇の脚本に深い意味や示唆がないはずはないので、おそらくこの映画がちゃんと描けていないのではないかと思いますが、残念ながら勉強不足で真実も分からず判断もできません。
・予言者の女達がマクベスに「お前は王になるがお前の友人はその後の王の親になる」と告げる
・マクベスの妻がそれを聞いて全力でマクベスに君主を殺させる
・マクベスは気が進まなかったのに実行してしまい、うまく王にはなったが友人の息子に安心できず友人親子を殺そうとする
・友人の息子に逃げられてしまいマクベスはさらに不安になり精神を病む
・追い詰められて荒野をさまようとまたもや予言者達に会い予言に勇気づけられ暴君化
・あれほど悪に染まれとマクベスを攻め立てた妻がマクベスの変わり様に落胆し、なぜか死んでしまう(死因不明)
・マクベスは人望を失い、妻と子をマクベスに殺され復讐に燃える近隣の領主と決闘して死ぬ
ほぼこういう内容です。示唆されたことは
1.女は目先の欲望に目がくらみやすく、考えが浅はか
2.悪事には必ずしっぺ返しあり
3.気が進まないことは勢いや他人の言葉に乗って実行せぬこと
なんか深みがないです。釈然としないのは、最初と途中に出てくる予言者。彼女らが、頼まれもしないのに一見良いことを一方的に言って消えてしまう・・・この物語は彼女らが要らないことを言ってマクベスらが翻弄されひどい目にあう物語だということです。
薄味なシェイクスピア
数多くあるランキングのどれかでしたが、共に美男美女第1位に輝いたことのあるお二人の共演ということもあり、楽しみにしておりました。
原著を勉強したのは20年余り前のことなので、再度読み直し、学者さん達の昨今の解釈をざっと読んでから鑑賞しました。
この作品の「新」解釈はそう珍しいものではないみたいですし、脚色も演出も作り手の自由ですが、今ひとつ言いたいことが伝わらない中途半端な仕上がりになってしまったようです。
本来のテーマを訴えるのなら、名場面を省略せずにもっと忠実に再現すれば良かったのです。もし子供すなわち直系にこだわり王座を廻る親戚間の戦いとして描くなら、実在のMacbeth夫人の息子は連れ子のようでしたので、「血の繋がった息子」欲しさに子持ちの領主に嫉妬するとか、もっと明確に脚色すべきでした。
映像化ならではの良い点は、舞台では再現困難な荒涼とした風景です。でも予算を削った感が出ていて、もう少し原作通りの背景で、趣向を凝らして欲しかったです。
台詞は前後したり、Rossの台詞をMalcolmが語るなど、細かい所は結構変わっておりました。
Macbethの残虐非道な暴君への変容ぶりはさすがFassbenderです。王冠や肩書きだけでは部下の真の忠誠心を得られないということは、よく描けていたと感じました。
それと、最後のシーンは個人的に好きです。Fleanceは父親殺しを疑われるくらいもう少し成長した青年の筈なんですが、剣を手にしたことで、残りの予言の実現性が増します。これも解釈のひとつに過ぎませんが。
確か予告のキャッチコピーで、「あなたの中にもマクベスがいる」みたいなのがあったと思いますが、本作から伝わってくるものは、「占い信じるとこうなっちゃうから皆気をつけようね」って感じになってしまいますかね…。原作未読の人が誤解しなければ良いと願うばかりです。
薄味
あまりに有名な戯曲の映画化である。
ただ、薄い…故に見やすい。
空間的に広がる舞台よりも、映像として明確に提示もしくは挿入する事により、膨大な言葉の迷宮に惑わされる事が少なかった。
寧ろ、その言葉を言葉として認識できた。
ただ、
舞台のソレよりは、こじんまりした印象を受ける。表層を上手になぞったような印象が残る。
映画でやるなら、映像を使えるなら、普通に3時間とかかかる作品なのではなかろうか?
凝縮ではなく、薄味なマクベス。
憎しみと欲望の連鎖に取り込まれる王、マクベス…舞台から降りてきた彼は、マクベスという名の王ではなくても良かった。
カメラがあまり好きではなかった。
象徴的に切り取られる「絵」が、美に特化してるのが鬱陶しい。
おぞましくあり、美しくあり、凄惨であり、空虚であり、赤くあり、黒で、蒼くあり…そして、それでも崇高であって欲しかった。
やりきれなかったと評すべきであろうか。
ハイスピードの多様も、今作品では諸刃の剣だったように思う。
まあ…根本的にこの手の作品、いや、脚本は、字幕を読むのと読まないで観れるのとでは、全然違う印象なのかとも思う。
もったいぶった演出とピントのずれたアレンジのせいで退屈な作品
映像にこだわりがあるのは分かるが、作品としては退屈で非常に眠かった。余計な脚色のせいで『マクベス』の根本的な魅力を失っており・・・別に脚色すること自体が悪いとは言わないが、少なくとも本作においては失敗だったといわざるを得ない。
***
原作の『マクベス』が、同じシェイクスピアの『リチャード三世』に似ている、というのは昔から言われてきたことだ。
どちらも身分の高い主人公が王や政敵を暗殺してみずから王になるが、暴政を布いて人々の恨みを買い、最後は反逆軍に敗れて戦場で死ぬ、というほとんど同じ展開で、殺された人々が亡霊になって現れ主人公の良心を苛むという点もおなじである。
両者の違いは主人公のキャラクター造形にある。
『リチャード三世』の主人公ヨーク公は「悪のスーパーヒーロー」とでもいうべき人物で、悪事に対してブレないし、非常に弁舌も立つ。女性とガチで言い争いをして言いくるめるような男がどれだけいるだろうか。ある意味、目からビームを出すよりすごい特殊能力といえるだろう。
ところが、『マクベス』においては主役はマクベス夫妻ふたりといっていい。
つまり野心を持って実際に王になることと良心の呵責に苛まれることはマクベスというタイトルロールに残されているのだが、悪事に手抜かりなく毅然とし、しかも弁舌で他人を言いくるめるという部分はレディ・マクベスに分割されている。
言ってみれば、この二人は夫婦漫才のような組み合わせなのだ。典型的には宮川大助・花子のような、奥さんがマシンガントークで畳み掛け、旦那は勢いに飲まれてつい「すいません」と言わされるような、あの感じに近いのである。
ステロタイプではあるが「いざというとき役に立たない男」と「いざというとき腹の据わった女」という対比でもあり、マクベスが王を暗殺する二幕二場など、その両者の対照振りが際立って面白いところである。
要するに「キャラが立っている」わけだ。
そしてドラマの構造としては、マクベス夫人が悪事をけしかけることで物語が推進し、それにマクベスが逡巡したり錯乱したりすることで人物の深みを表現する、という役割にもなっている。
***
ところが、本作は妙なアレンジをほどこし、この基本的な構造を壊してしまっている。
最大の改変ポイントは「死んだ子供」の存在だ。
おそらくマクベス夫妻の子供であろうが、作品冒頭は子供の葬式のシーンから始まるが、これはオリジナルにはないシーンである。
こんなものをわざわざ冒頭に付け足したからには、おそらく本作の監督は
子供を失った悲しみや絶望が、夫妻を悪事に駆り立てた
という話にしたかったのかもしれない。
実際、(原作にはない)死んだ子供の亡霊ともいうべきような映像が、この作品には幾つか存在している。原作でマクベス夫人が夢遊病になるシーンでは白い服を着た子供の幻影に語りかける場面に改変されているし、作品の狂言回しである三人の魔女たちが同じように白い服を着た子供を連れてもいた。
作品のラスト、三人の魔女+子供は戦場に現れてマクベスの最期を看取るような演出が為されていたが、死と生の境界にいる存在だということを意味していたのだろう。
それから作品の中盤ごろ、王になった後のマクベス夫妻が二人で会話をするシーンで、なかば錯乱気味のマクベスが短剣を夫人の腹になぞりながら話すところがあった。
あれも、失われた子供(あるいはこれから生まれるはずの子供)を意味していたのかもしれない。
だが。
オリジナルのセリフをそのまま流用したこの作品において、死んだ子供の存在がどうマクベス夫妻の野望につながったか、あるいは彼らのその後の転落とどう関わったか、そこはほとんど描かれていないのである。
実際、この映画においても、マクベスの野望は魔女の予言に触発されてのことだし、彼が錯乱し始めるのは宴席においてバンクォーの亡霊を見てからのことだ。どちらもオリジナルどおりで、物語の転機に「死んだ子供」はまったく関わっていない。
要するに「死んだ子供」に関するシーンはなんとなく雰囲気的に意味ありげなだけで、物語の本筋にはなんら関係していない。ゆえに「もったいぶった演出」と「ピントのずれたアレンジ」と言ったのである。
そして、「子供を失った悲しみ」を表現しようとしたためか、本作のマクベス夫人は弱体化が著しく、そのために物語の推進力が低下してしまっている。
ゆえにこの作品は退屈で、眠い。
まあ、ときどきはマクベスがギラギラした野望を演じて見せることがあって(こういうシーンではファスベンダーの演技力が光る)、そこでは話が進むのであるが、時に逡巡したり野望をむき出しにしたり、その辺のつじつまが合わないので全体としてはよくわからない感じにもなってしまっている。
個別のシーンがつながっていない、という印象だ。
つじつまが合わないといえばラストシーン、マクベスがマクダフから「女の腹から生まれたのでない」種明かしをされる有名なシーンも演出がおかしかった。
この作品ではマクベスがマクダフに馬乗りになり、あと一刺しというところで種明かしをされ、「勇気を挫かれた」といってあきらめてしまうのだが、少なからぬ観客が
そこまで行ったんならつべこべ言わず刺せよ!
と思ったに違いない。不自然なのだ。
その後、マクダフに降伏を促されたマクベスが降伏を拒むのはオリジナルどおりの話の流れだが、さきほど止めを刺すのをあきらめておいて、いまさら何言ってんのと・・・この辺も非常に不自然な展開で、監督がシーンの意味をよく考えていないためにこうなってしまった、といわざるを得まい。
***
最後に字幕について、一点指摘しておく。
本作に登場する地名(というかマクベスの領土の名前) Glamis はこれで「グラームズ」と発音するが、一箇所「グレミス」と字幕が当てられていた。スコットランドのではなく、アメリカのカリフォルニア州にある Glamis は「グレミス」と読むので、そちらと間違えたのかもしれない。
もっとも、他の箇所では「グラームズ」と正しく表記していたものがあった。
推測するに、元の字幕では間違えて「グレミス」としてしまったのだろう。そして試写会か何かで誤りを指摘され、一方は修正したものの他方は修正漏れしたと考えられる。
いずれにせよ本作の字幕をつけた人物は、邦訳の『マクベス』にあたって確認する作業をしなかったことは容易に想像がつく。
教養もなければ誠意もない仕事ぶり。
もちろん誰もが予測できる通り、本作の字幕は戸田奈津子である。
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