劇場公開日 2015年6月6日

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「誰が殺した クックロビン byマザーグース」エレファント・ソング とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5誰が殺した クックロビン byマザーグース

2023年6月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

知的

難しい

誰が誰を殺したんだろう?身体的に、精神的に…、魂を…。
身体レベルで考えれば、それは明らかである。
けれど、その明らかな事実とは別の、目に見えない真実を探したく?別の物語を紡ぎたくなる。そんな結末。

愛、それは尊いもの。得たと思ったらすぐにこの手から離れていくような感覚。
存在、それも大切なもの。でもどうしたらそれを確かめられるのか。
確実・絶対なんてものはない。けれど、そういう世界は生きにくい。
どこかで、信頼できて頼れるものの存在を感じていたい。触れなくとも感じられ信じられる人。触れていなくては、否、触れていても信じたいのに信じられない人。渇望。絶望。
見終わって、そんな想いに心臓がわしづかみにされる。
涙なんかではない。心が痛い。最期の幸せそうな場面にほっとすると同時に、心が悲鳴をあげそうになる。

☆彡  ☆彡  ☆彡

戯曲の映画化とな。舞台は面白そうだな。
でも映画は感想が複雑。変に凝った為に、焦点がぼやけてしまったように思える。それともサスペンスタッチ、心理戦の攻防をうたった宣伝のせい?
鑑賞後の余韻は、まったく別のものだった。

一人の精神科医が失踪した。事件?最後に診察した患者が何か知っている?と言う出だしで始まる。その真相を巡る駆け引き(という宣伝)。
 確かに、尋問(精神科医は尋問とは考えていないけど)は、翻弄される。知りたい答えははぐらかされ続ける。そこは面白い。自分の存在感に確信が持ていないマイケルの危うさ・脆さを醸し出すドラン氏の演技には魅了される。院長の感性の鈍さ、エゴイストなのに善人ぶっているそんな演技も秀逸。(「私は先入観なしに患者と面談し、理解できる」という、”人間性”の優しさという仮面を被った傲慢。いるんだな、こういう精神科医や自称カウンセラー。そして、患者もマイケルの如く、「先入観なしに私を観て」と熱望してくる人、いるんだな)
 なのだが、「主治医が昨夜から戻っていない、最後に会ったのはマイケル。何か事件が起こったに違いない」と思わせるだけの、狂気・危うさが感じられない。ドラン氏ファンには大変申し訳ないが、デハーン氏や『ギルバート・クレイブ』の頃のディカプリオ氏が演じていたら、もっとぞくぞくする映画になっていたんじゃないかなんて思ってしまう。つい、勝手に脳内変換してしまう。
 そして、診察室を訪れる方々。舞台劇だといいインパクトになるのだろうが、この映画で必要だったのだろうか。院長の心の変化が主題だとすると、家族背景とかの描写は必要だけどね。そうすると主演はドラン氏じゃない。
 ドラン氏を主演として見て、マイケルの家族や成育歴の描写も出てきたけど、中途半端。エレファント。映画の中でも直接的・隠喩的表現が散りばめられていたけれど。たんにモザイク・万華鏡のようで、底が浅くなってしまっていてつまらない。もっと丁寧に作り込んで欲しかった。
 「ドラン氏が、マイケルを演じることを熱望した」という宣伝そのものが、映画を理解するためのミスリード?
 また「あえて時代を1960年代に移した。監禁もあった時代だからね」ってパンフレットにあったけれど、監禁が許された時代に、患者から精神科医を告発なんてできた?
 という矛盾が幾つも出てきて…。
 宣伝のせいなのか?脚本のせいなのか?演出のせいなのか?設定そのものにもはぐらかされたような違和感が残る。

とはいえ、
看護師長がマイケルに約束をさせようとする場面。何を約束させようとしたのか?「死なないで。生きると約束して」って、言いたかったのかと思った。だから、看護師長とマイケルと話しさせろよ、ボケ院長と本気で怒ってしまっていた。胸が締め付けられて痛かった。

それと、
全体的にペールグリーンでまとめられた色調。どこか冷たく、どこか優しく。この色合いにはドラン氏があいますね。
真綿でくるまれたような、うたかたの夢に漂うよう。どかか不安定で、どこか居心地がいいのに、居心地が悪い世界。

診察室においてあったカウチ。フロイト精神医学の象徴。フロイトの素養があったら、もう少し台詞一つ一つの意味をかみしめられたのかな?(特に同性愛的な描写とか、触れてほしいのに触れてくれない、だのに愛しているとかの意味とか)

しばらくたってから見直すと、また違ったものがみえてくるのかも。

とみいじょん