「自分で歩いて、自分で見つめる「原発」」無知の知 ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)
自分で歩いて、自分で見つめる「原発」
本作を撮った石田朝也監督のスタンスがいい。
あんまり、肩肘張ってない感じ、でも好奇心は旺盛。ゲンパツとか、ホーシャノー、とかよくわかんない、でも、なんだかコワそうだし……。
そうだ、「分からないから」とにかく「分かる人」に訪ねて訊いて回ろう。てくてく自分の足で歩いてキャメラ取材を続ける。
とっても謙虚なスタンス。
この人、スクリーンで自らインタビュアーとして登場するけど、本当に、ふつぅ~の、近所にいるお兄さん、という感じなのだ。
「問題意識を持って!!! 原発問題に!!! 鋭く!!! 切り込むのダァァァ~!!!」
などという気負いは全くない。だから、見ている観客も、とっても客観的に、僕ら自身が考える材料を、提供してくれている気がする。
そういえば、70年代に「アツく」「反戦だ!!」「安保反対だ!!」と叫び、機動隊と肉弾戦まで演じた、学生達のほとんどは、のちに企業戦士となって働いた。当時を語る、あるフォーク歌手は
「反戦ダァァァ~!! なんて言ってりゃあ、カッコよかったからね」
ちなみに日米安全保障条約、その全文を僕は読んだ事がないし、今更、読む気もしない。
同じように、「原発」に関連する法律にどんなものがあるのか? 僕は全く知らない。それを調べてわざわざ読む気も起こらない。
そんな僕が、原発に「反対」か、あるいは「賛成」か?
それを選べと言われても、思考停止に陥ってしまう。
そもそも、なぜ選択肢が二つしかないのか?
僕にはそれすらよくわからない。僕にはまるでわからない。
だから、僕はお金を払って、この映画を観てみよう、と思い立った。
それが僕の原発に関する、ささやかなスタンス、「立ち位置」である。
石田監督は何のケレン味もなく、福島の地元の人たちに話を聞く。
時には怒られ、拒絶され、それでも、黙々と映画を撮る。
福島のおばちゃんたちと話をする時も、菅直人元総理と話をする時も、相手に対する距離感は変わらない。それ自体が、本当に不思議な人だなぁ~、と思う。
鳩山由紀夫、村山富市、細川護煕、といった、元総理大臣経験者、そうそうたる重鎮へ直接取材する。
やはり、3:11のまさにあの時、総理であった菅直人氏、官房長官であった枝野幸男氏へのインタビューは興味深い。
事故発生の直後、首相を補佐する、危機管理の対策室が立ち上がる。だが、その指揮に当たるトップは、経済畑の官僚であり、原発の知識は、ほぼゼロであったという。
「はぁ?!」である。
そういう人選をすること自体、行政、官僚たちが危機意識を持っていなかったことを、さらけ出してしまった形だ。
当時の官邸、菅首相は、事故が起きた原発の、最前線の情報を求めていた。当然の話だ。
だが、せいぜいテレビのニュースで、現状がうかがい知れる程度であったらしい。
”キレ菅”の異名を持つ菅首相は、まさに、キレて、福島の現地へ乗り込んだ。これがのちにマスコミのバッシングのネタになる。
福島原発の現場指揮所は、まさに大混乱していた。一分一秒ごとに、原子炉の状況は変化する。そこに内閣のトップが来るなんて事は、余計現場を混乱させる事は明らかである。しかし、現場のトップである吉田所長は、貴重な時間を割いて、首相に会い、現状を説明する。
東電の吉田所長から、直接説明を受けた菅総理は
「ああ、やっと、ちゃんと原発の話ができる人と会えた」とホッとしたという。
また、本作で驚かされるのは、東電の政府への対応である。
福島第一原発と東電本社には、実は、映像のホットラインがあり、リアルタイムで現場の責任者と、テレビ会議ができる体制が既に構築されていたのだ。ところが、そのテレビ会議ができるシステムが東電本社にある、という事実は、隠されていたのだ。
しかも、「もう、危ないから、原発ほったらかして、逃げます」と、東電は言い出すのである。
これはのちに「何としてでも現場に残って欲しい」という政府の要請で、東電の現場スタッフは、ほとんど決死隊の覚悟で現場にとどまることになる。
さて、一旦事故が起きてしまうと、取り返しがつかない事態となる原発だが、それでも、原発を推進する人たちがいる。
石田監督はその人たちにも意見を求める。
さらには、そもそも、なんで原発を作ろうとしたのか?
歴史を巻き戻して、当時を知る政治家たちへもインタビューする。
そんななか、原発推進派の、ある人物は、福島に何度も足を運ぶ。現地で被害に遭われ、被曝をし、避難している人たちとも話をする。その人物が言うには
「実はね、原発を推進してる人も、これこそ、日本を救うんだ、日本のためになるんだって、信じてる。同じように原発を反対する人も、我こそは正義だ! 我こそは日本のためだ、と信じてる。お互いが『日本のため』で対立してるんだよね」
誰もが、明日はもうちょっと、いい日本でありたいよね、と思う。
そのより良い暮らしをするためには、原発が必要なのか? 要らないのか? なぜ、「正義」同士は対立しあうのか?
この構図っていうのは、それこそ、キリスト教圏の「正義」とイスラムの「正義」が対立していることと、なんら根っこは変わらないんじゃないか?
どっちも自分こそ、「正しい」と信じ込んでいる。
僕には正義を振りかざす勇気は到底ない。
僕は、これまで平和な日本で、会社勤めをし、給料をもらい、社員旅行で海外旅行に行き、更には、一匹、五万円の鯉が泳ぐ、会員制ゴルフ倶楽部で、大名ゴルフをやったことさえある。
それが経済的に可能だった要因の一つは「原子力」で作った電気を「僕自身が」使ってきたからだ。
僕たちはそういう電気、エネルギーを使ってきた。それで日本は繁栄してきた。
実は福島に住む人たちは、複雑な事情を抱えている。
福島原発は一大城下町を築き上げていた。
原子力発電のおかげで、雇用が生まれ、地域の経済は潤い、各家庭のお財布は豊かになった。
いまさら、「原発反対!!」なんて、大声出して言えた義理じゃないのだろう。地域に住む人たちは、紛れもなく、原発事故の被害者であるものの、しかし、今まで生活を支えてくれたのも、まぎれもなく「原発」だった。地域の繁栄は「原発」がもたらしてくれた。
ところで、僕が不思議に思うことがある。マスコミはなぜ、菅直人を叩いたのだろうか? 叩くことによって、それで得をするのは誰なのか?
僕と違って「お利口さんな人たち」は、そんなこと、すぐ分かるはずだ。
お陰様で、自民党政権になり、アベノミクスのおかげで、いまや日経平均株価はついに2万円の大台(2015/4/23現在)に乗った。
もう、笑いが止まらないほど、儲かっちゃっている、一部の人たちがいるのだ。それはまさに
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
という言葉を思い出させる。
しかし、避難を続けている14万人の人たちは、今も、故郷に帰れないでいる。
地元のおっちゃん、おばちゃんたちが話しているその会話。
「シーベルト、ベクレル」という単語、単位が、当たり前のように話される。そして普通の家庭、家族だんらんのなか、「線量計」という道具が当たり前に使われる、現実の姿。
原発に関係した事で、僕には今でも忘れられない体験がある。
2012年6月23日、僕に、東京在住の知人から、一通のメールが送られてきた。
「いま、総理官邸で大変なことが起きてます。Youtubeで見てください!!」
僕は指定されたアドレスの映像をパソコンで見た。タクシーの車内から、素人が撮ったと思われるビデオだった。
タクシーは首相官邸を一周した。ビデオは一般市民たちが総理官邸をぐるりと取り囲んでいる様子を撮影していた。
手に手に、「原発反対」のプラカード。
僕はその日のテレビのニュースを片っ端から見た。翌日もニュースを見た。
しかし「首相官邸をデモ隊が取り囲んだ」という、驚くべきスクープは
「一秒も、そして一行も」
メディアで語られることはなかった。
大手マスコミが、この、市民が自発的に行ったデモを最初に報じたのは、僕がメールをもらってYoutubeを見た、その一週間後である。
どのテレビも、どの新聞も、この件については、一週間の間、固く、かたく、口を閉ざしたのだ。
僕はゾッとした。
「この国ではまだ”大本営発表”がつづいているんだ……」
政党などの組織的動員ではなく、子供を持つ、普通のお母さんや、お父さん、一般市民たちが、初めて自発的に、総理官邸をぐるりと取り囲んだ、あの驚愕の日。
なぜ、大手マスコミは一斉に口を閉じたのか?
石田監督に是非「記者クラブ」という「パンドラの箱」を開けて欲しいものだと思う。