女人、四十。のレビュー・感想・評価
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「老い」というネガティブイメージが反転するとき
老境に至る、などという言い回しこそあるものの、往老いることに伴うイメージは往々にしてネガティブなものだ。アルツハイマー症候群はそんなネガティブイメージの源泉ともいえる。正気だった頃の威光が凄まじければ凄まじいほど、失禁や相貌失認や深夜徘徊といった諸症状に苛まれる当人の惨めさはいっそう強まってしまう。 戦時中は空軍の中隊長として雄々しき活躍を演じた祖父は、伴侶の死をきっかけに少しずつアルツハイマーに蝕まれていく。本作はそんな祖父を押しつけられた息子夫婦の焦りと疲弊の日々をワン・トンばりのスラップスティックで描いたコメディ映画だ。 軍人上がりの祖父はザ・昭和な亭主関白ぶりを遺憾なく発揮して息子夫婦たちを困らせる。しかも怪力の持ち主で、実の息子を泥棒と勘違いしてヘッドロックをかける。単にボケているだけならまだいいが、なまじ膂力と行動力があるものだから手に負えない。 義娘は所謂バリキャリウーマンで、義父の世話を押し付けられたことで仕事に割く時間が減ってしまうことを嘆き悲しむ。その隙を狙うかのように義娘の会社には綺麗で若く先進的な女社員が入ってくる。当然男どもは彼女にゾッコン。家では「女は家事」、会社では「女は愛嬌」の悪しきジェンダーロールに揉まれる地獄のような日々に義娘はほとほと疲れ果てる。 とはいえここで義父に憎悪を集中させてしまうことは、性別間の問題を世代間の問題にすり替え断絶を煽ることに他ならない。アン・ホイはそう易々と憎悪主義には陥らない。 アン・ホイは老いるという現象について非常に深い洞察を有している。彼女は老いが随伴するネガティブイメージが、血縁という色眼鏡を通じて覗いてみたときにのみ反転しうる可能性があることを知っている。 人間は老化していく中であらゆる能力値が下がっていく。時間の流れをx軸、能力値をy軸とすれば、グラフはさながらドームのような形状を露呈することだろう。しかしドーム型ということは、端緒と終端が相似しているということだ。つまり老いた人間は能力値的な意味でいえば赤子と同じということだ。 事実、老人ホームの介護職員はまるで幼い子供に話しかけるようにゆっくりとわかりやすい言葉遣いで老人たちに接する。 とはいえ老人を赤子と同一のものとして扱うことは難しい。いい歳こいた大人に対して赤ちゃんのように接するというのは大変に倒錯的だ。歯に衣着せぬ言い方をすれば、キモい。 しかしこのキモさに、血縁という色眼鏡がかかると不思議なことが起きる。本作を通じて我々もそれを追体験しているはずだ。そう、あれだけ傲慢で不愉快だったはずの祖父が、徐々に可愛らしく思えてくるのだ。 老人なのに赤子、という倒錯的なキモさが、血縁という社会的距離感によって克服され、むしろ好意的なものとして受け入れられていく。 まったく非論理的だが、本作に描かれた祖父への周囲の態度が軟化していく過程に不自然さはない。実際、たぶん、俺もそうなんだろう。 終盤、祖父が真夏にもかかわらず雪(のようなもの)が降ってきたことを訝しがることなく喜んで受け入れるシーンは非常に示唆的だ。それは祖父に対する息子夫婦たちの態度と相即している。 「人生とは歓びなのだ」などという陳腐な祖父の言葉も、彼の死の間際に発されたことで深い滋味を獲得していた。 冒頭で祖父が鳩もいない屋上に豆を撒くシーンがあるが、そんな屋上の上に無数の鳩が集まっているというシーンで本作は幕を閉じる。 別に最後の最後まで祖父はすげえいい奴というわけではなかったけど、でもまあ、そんなに悪い奴でもなかったな、という赦しの情がじわじわと湧き上がってくる映画だった。
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