捨てがたき人々のレビュー・感想・評価
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すてがたきじぶん
ユーチューブにじぶんのしゅみに合った動画が並んでいますか?
『ユーチューブのホーム画面に出る動画は、あなたの再生履歴や検索履歴などのデータから、あなたの興味がありそうな動画を判別し、出現させています。』
──とのことですが、ほんとですかね。
そのフィルター機能の精度はともかく、概して、日本/日本人のユーチューブって修羅場みたいなのがはやりというか、修羅場みたいな動画が多数派だと思いませんか。
ユーチューブをひらいたときにトップに出てくるのが、たいていそんなやつです。
ホームレス生活どうのとか、手取り数万かつかつで生きるとか、15時間労働だとか、離婚すんぜんだの、元妻と一触触発だの、子育てと仕事二足わらじでワンオペとか、ぼったくりばーに潜入とか、街のDQNと喧嘩ぼっぱつとか、不幸な境遇とか、障害を負っているとか、そんなんばっかしです。
開いてみてください。そこには、不利な環境やある種の極限状態やシリアスぶった謝罪やじぶんが背負っているなんらかの負のパラメーターを強調表現する動画だらけ、です。
じぶんはそれらをまったく見たいとは思いません。でもそれらがつねに上がってくるってことは、好まれて見られているということです。じっさい何十、何百万回も再生されています。
そこでじぶんはハッと気づくわけですが、じぶんは修羅場/愁嘆場だらけの日本映画がだいきらいで、いつもけなしているのですが、修羅場/愁嘆場な日本映画ってのは、多数の日本人に好まれていて、たんにオマエ(わたし)が一般的な日本人の嗜好と違うってだけ、なんじゃなかろうか。と。
いや、そうにちがいない。
日本/日本人のユーチューブが修羅場だらけなのは、日本人が修羅場がだいすきだから──にちがいない。
まったくみょうなところで、じぶんが、ふつうの日本人とはちがうってことに気づいちまったぜ。・・・むろんだからといっておれはトクベツな人間なんだぜと勝ち誇るわけじゃありません。にしてもユーチューブにみる日本人の修羅場だいすき度ってのは、わたしとしてはじゅうぶんに衝撃です。なにしろ、わたしはそれをまったく見たくないのですから。
個人的に嫌な現実を想起させるものは見たくありません。嫌なのは現実だけでじゅうぶんです。
が、多数の人々はギラギラした修羅場や愁嘆場を見たがっています。しかるにクリエイター側も修羅場づくりに励んでいる。わけです。
ところで日本の多数の「修羅場クリエイター」にとって、もっとも困るのが「自分より大きな修羅場の存在」です。
言いたいことが伝わるかわかりませんが、ロシアのウクライナ侵攻(2022/02/24~)は「修羅場クリエイター」たちにとって景気を悪化させる外的要因です。
修羅場クリエイターの伝えたいことは「生きることの過酷さ」です。ほんとに過酷かどうかはともかく「おれはこんなにタイヘンなんだぜ」が日本のユーチューバーが訴えたい核心です。ところが、日毎送られてくる報道やSNSによるウクライナの状況は、修羅場ユーチューバーの動画を軽く凌駕しています。そこではほんとに人がころされたり、民間にミサイルが落ちてきたり、地下に人々が息を潜めていたり、幼いこどもが生き別れたり、女子供が国境へ向かって何百キロも歩いたりしています。
けっきょく修羅場クリエイターは自分よりはるかに大きな修羅場の存在によって「商売あがったり」になってしまう──わけです。
日本映画は修羅場ユーチューバーに似ています。根本的に諸外国の映画人と異なる動機──作りたい映画があるわけではなく、自己顕示を目的としています。日本の映画人にとって映画は観衆にたいしてスゴむ手段です。
男のばあい余禄(女優と懇ろになること)にあずかる手段でもあります。
ではなぜ日本映画/日本映画界は、そうなってしまったのか。
天才ではないのに天才を謳ったり、観衆を威嚇するような作風だったり、修羅場/愁嘆場を好んで描いたり、映画監督が偉そうにするのか。
それらの要因は日本映画/日本映画界の原点のといえるポルノにあります。
ポルノでもっとも肝心なのは女の子をつかまえて裸になってもらうことです。何を差し置いてもそれが要です。それを達成するために昭和のポルノ作家たちは自分自身や業界に威風を付与したわけ。天才といってみたり根性論をぶちまけたり作風を難解や残酷にしたり。そうすることによって良く言えば出演する女性のなかに「天才の作品に出られる栄誉」を目覚めさせたのです。悪く言えばおれは天才なんだから脱げと言って欺したわけ。
(既にどちらも故人ですが)ベルトルッチがラストタンゴ~(1972)の件でマリアシュナイダーに訴えられたことがありましたが、そんな悲哀は昭和ポルノの周辺には山のようにあったことでしょう。日本人がもっと積極的だったらMeTooに連動して昭和ポルノ出身者が大量にタイホされていたにちがいありません。
はんぶん冗談ですが、はんぶん本気です。
日本映画界はそれら昭和ポルノたちの作風やマーケティング戦略をしっかりと引き継いでいます。天才ではないのに天才と謳います。クリエイティブスタンスでなくプロダクティブスタンスでもなく、根性や気合いで映画をつくっています。みごとなまでのアナクロ趣味です。
はるヲうるひとってご覧になりましたか?日本人が持っている途方もなく根深いアナクロニズム、古色蒼然たるロマンポルノを確認できます。あのたのしい佐藤二朗があんな○○映画をつくってしまうわけです。
そもそもベルトルッチのラストタンゴ~ならまだ救いはあります。せかいじゅうの人が知っている傑作なので。そうじゃなきゃどうですか。才能あるひとの作品なら、いい作品なら脱いでも意味があります。知らない作品、まるで力量のない作品で脱いで頑張るのってどうですか。火口のふたりって知ってますか。旬報2019ナンバーワンの日本映画です。いとこどうしがやりまくって火山が爆発します。女優さんが脱いで頑張って賞をとりました。ほとんど記憶にありませんが。
この榊ってひとの作品はどうですか。典型的なザ日本映画の監督です。ジョージ秋山の捨てがたき人々は──だけでなくジョージ秋山の漫画は悲惨でも滑稽感がありました。こんな臭い修羅場/愁嘆場の話じゃなかった。いや、ていうかこの監督、そもそも力なさ過ぎ。たんなる素人です。
ザ日本映画の得意技ですが、修羅場/愁嘆場ってのは無いものをなんか有るようにみせてくれるのです。
監督は今(2022/03)文春砲のまっただ中にいて、その俳優/監督史上もっとも脚光を浴びています。ゲスい発言のLINE画を晒されてます。
お蔵入りした「蜜月」で監督と文春砲仲間の板尾創路に挟まれた女優さんはどんな気持ちだったことやら。
個人的な想像にすぎませんが、日本映画業界、あばかれてないだけでワインスタインみたいなのが、ごろごろいるはずです。日本人の民族性=控えめさに守られているだけであって、世界に冠たるポルノを有する日本の野郎どもが、なんにもしてこなかったはずがありません。この榊監督の件なんて氷山の一角でしょう。告発せずに埋もれた何十、何百のマリアシュナイダーがいるはずです。
(ここで言っている日本映画/日本映画界とはポルノ出身やATGや21世紀の女の子の系譜です。TV畑出身や濱口竜介監督等、その系譜ではない日本映画/映画人もいます。)
30年前からホームページやブログをやってきました。わたしのホームページやブログの来訪者はだいたい月に0~1ていどでした。年間でも10未満でした。自分が来訪してもカウントしてくれるカウンターを使っていました。そんなHP/ブログでしたがわたしはシコシコと記事を書いていました。始めてはやめるを繰り返しましたがさすがにもうわかりました。(とい言いつつ映画レビューはやっていますが。)
過疎なブログでしたがごくまれにコメントを拾いました。頭よわそ。煮つまんなやカス。自演乙。ガイジ。いっぺんぬいておちつけよ。氏ねよキモオタ。──等々言ってくる奴とコメント欄で言い争いをしたことがあります。だれも見ていない、だれも訪れない、だれもいないブログ、そこでどこの誰だかわからない人と罵倒合戦をしたわけです。わたしたちの熱い戦いを目撃したひとは一人もいません。
ろくでもない映画で脱いでいる女優は気の毒です。○そみたいな監督におどらされてく○みたいな映画のなかで脱がなきゃいけない日本の女優さん達は気の毒だと思います。誰にも見られないなら、なおさらです。頑張る意味がありません。
もちろん外国でも女優が性搾取されることはあります。ただし、脱ぐとか脱がないとか、映画内で性的なことをしなきゃならないのはおよそ日本映画だけです。性的なことをやってそれを芸術だと欺瞞しているのは、日本の百姓監督だけです。
なにより無類の平和を享受しながら「おれは修羅場を生きてるんだぜ」てな世界を表現するザ日本映画ってのはほんとく○だと思います。滅んでもぜんぜんだいじょうぶな文化だと思っています。
ところで、これらはすべて自分を含めた「捨てがたき人々」というものを説明する話です。他意はありません。
そんなもんです、人間なんて。
とっても好きな作品です。
主演の大森南朋目当てで鑑賞しましたが、内容も私には刺さりすぎました。
人間なんて、取り繕ったモノ全部取っ払ったら欲望まみれの肉体でしかない。
それでも生きる、その姿すら愛おしい、捨てがたい。
榊英雄監督最高傑作
原作未読
キャストの皆さんはなかなかで僕好みの顔ぶれ
大森南朋はR100でも主演だったがこれはR18
ジョージ秋山原作らしい助平で下品だが面白い
ドストエフスキーの『罪と罰』をヒントにしたとしたら面白いわけだ
大森南朋が演じる狸穴勇介はクズだけど性豪
ある意味男らしい男の中の男
ローライズ嫌い
半ケツだすなよ
饅頭怖いじゃないけどとても不快だ
いつもケツ出していた腰が曲がりきったひいばあちゃんを思い出す
野郎のローライズに至っては論外
下の口とかかなり昔のエロ漫画的表現を女が口に出しますかね・・・
京子が日中自転車を走らせながら「みんなみんなセックスって豚たい!」って叫ぶシーン好き
京子の顔の痣という設定は必要だっただろうか
大森さん三輪さん2人ともとても良かった
R15とR18の違いよくわからん
社長とチーフの自殺理由もよくわからない
不満を爆発させる息子に心打たれる
榊監督の奥さんが歌うエンディングテーマ『蜘蛛の糸』も心に染みる
全てのレンタルビデオ店に置いてほしい隠れた名作
_φ(・_・人はなんで生まれるのか?
人はなんで生まれてくるのか?
過ちを何度も繰り返す人はなんで生まれてくるのか?
この問いの映画ってけっこう多いですよね。
仏教的に言えば意味などないなのでしょう。
意味は自分が作るのでは?
欲のままに自分の思うまま生き、こうあるべきという生き方が出来ない人...
欲のままに自分の思うまま生き、こうあるべきという生き方が出来ない人間。何で生きるのか。答えは見つからないまま。それでも生きよ、とエンディングで監督の奥さん榊(橘)いずみが歌う。
人生半ばにさしかかったクズ男が、生まれ故郷で一人の女性に出会い子供が出来る。その後も快楽のみを求めて生き、愛がわからないまま 10年経って...というところで終わる。
顔に大きなアザのあるヒロイン岡辺京子を三輪ひとみが演ずる。三輪ひとみが本当に素晴らしかった。最初は真っ当なんだけど宗教の幹部が死んだから上にいき、顔のアザを化粧で隠すようになり、宗教の男と不倫関係に。
美保純は最初、狸穴のことを激しく嫌って腐ったトマトとか罵ってたのに、後半になると「あんた意外と人間らしかかもねぇ」とか言って、最後にはすっかりねんごろになる。
ヤリまくりで欲にまみれた話だった。生きる意味を問うが答えなしみたいな内容。
大森南朋
ほんと、こーゆーカスみたいな役似合うわー。田舎の島でやることは酒飲むかセックスするか宗教やるかぐらいしかないのか。五島列島っていいとこだから固有名詞出さない方が良かったかも。生育歴って本当に大人になってからの影響が強い。虐待されて育った子は虐待するように。まさよしはまさに幼い頃の主人公だったはず。そしてその父も。そしてその孫もきっとそうなるのかな。どうせ死ぬのに生まれてくる意味と言われても、おばちゃんが言うようにこれが人間らしい姿なのかも。
まさにクズな生き方か⁉︎
結局人は、誰かと一緒にいないと生きられない生き物なのでしょう。
自分という存在を肯定して守ってくれる存在を求め合う人間模様…。
田舎町ならなおのこと、誰かを頼ることでしか生きながらえないものです。
しかしながら、頼る=セックスなのかと言いたくなるほど、ひたすら性描写が続きました。
意見は賛否両論あるかと思います。
生きる=セックスだとしたら、人間の生き方も動物も同じように思えてくる、なんとも過激な映像が印象的な作品でした。
原作未読/監督が五島出身だと知って納得
決して五島のイメージアップに繋がるとは思えない映画の内容だったのに地名アピールするもんやから…
エンドクレジットが縦書きでスクロールしないタイプのやつでしっくり。ラストカットからのエンディングの歌も良かったので名前調べたら監督の奥さんで、橘いずみだった!
色々共感してしまった。嫁と一緒に見なくてよかった〜
本当に大切なもの
生きるのに飽きた。
生きている意味がない。
主人公である狸穴勇介の言葉だ。
冒頭のシーンで語りかけるように言い、ラストでは叫ぶように言う。
出てくるのはセックスしか頭にない主人公の勇介に、勇介に蹂躙されてもなお通い続ける京子という女。新婚の事務員と不倫する社長でもある新興宗教幹部。
最低の人間のくだらない話と片付けるのは簡単だ。
それこそ原作者であるジョージ秋山の思う壺だ。鬼才ジョージ秋山は、この物語をアンチテーゼとして投げかけている。
中盤で、ストーリーは一挙に十年後に飛ぶ。十年経っても、勇介は生きる意味を見つけられないままもがき続けている。
結局は回答が出なかった。
馬鹿を言ってはいけない。
その十年間、勇介は生きる意味を見つけられなくても、毎日を精一杯生きてきた。
それこそが、この映画のテーマだ。
大切なのは、生きる意味を見つけることではなく、生き続けること。
どんなに這いつくばっていようと、生き続けることへの賛歌。どん底で、それでも生きようとする者へのエール。
お為ごかしの
ヒューマンドラマなんて及びもつかないほど、生きとし生けるものへ優しさと愛情に溢れた物語なのだ。
素晴らしい作品を世に送り出した人々に、壮大なテーマに真っ向から取り組んでくれたキャストやスタッフの方々に感謝します。
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