「若尾文子が単独主演。山本富士子も出ているぞ!」十代の誘惑 kazzさんの映画レビュー(感想・評価)
若尾文子が単独主演。山本富士子も出ているぞ!
性典シリーズの4作目にして最終作とのことだが、タイトルから〝性典〟をなくしただけに過去3作とはテイストが少し違っているように思う。
当時の貞操観念とか性の倫理観に苛まれた十代の少女が孤独に苦しんでいた過去作とは違い、本作では高校生の男女交際に対する世間の過剰反応が若い二人を追いむのだが、少女(相手の男子も)は肉体的には汚されず、物語もハッピーエンドだ。
このあたりが、青春賛歌的な印象を与えるのかもしれない。
監督∶久松静児
脚本∶須崎勝弥
企画∶土井逸雄
本作の出演者で最初にクレジットされている6人の女優は、十代の女の子ばかりではない。
・高校3年生の月村光子=若尾文子
・光子の同級生=木村三津子
・光子の同級生の辻勢津子=青山京子
・勢津子の姉の伊津子=伏見和子
・光子の同級生の弘子=南田洋子
・光子の担任教師の川上先生=山本富士子
月村光子は、母と幼い弟・妹の4人で慎ましく暮らしていて、中華料理屋のアルバイトで家計を助けている。旅行費用が用意できず修学旅行を諦める。
辻勢津子は小さなアパートに姉の伊津子と二人で暮らしている。小説を書くことに夢中で、文学青年たちが入り浸る喫茶店に通ったりしている自由奔放で風変わりな女の子。
辻伊津子には婚約者(根上淳)がいる。彼女はヤンチャな妹に辟易としている。
弘子は久里浜の療養所に入院していて、ベッドに横になっている場面しかない。
デビュー前に米ライフ誌のカバー・ガールに起用されて有名になった木村三津子と、初代ミス日本から各社の争奪戦を経て大映が獲得した山本富士子の二人は、それほど重要とも思えない役で花を添えている。大映自慢の看板だったのだろう。
シリーズでは初めて、若尾文子が明確に主人公だといえる人物を演じているが、ともにシリーズを牽引してきた南田洋子が一線を退いたようにゲスト的な役なのが寂しい。それでも、やはり南田洋子は不幸なのだが…。
大映が『十代の性典』を公開する前年の1952年に東宝が公開した『思春期』が〝性典もの〟の先駆け的作品とされていて、その作品で本名の中西みどり名で女優デビューしたのが青山京子。翌年の1953年に『続・思春期』(※)と本作に青山京子名で出演している。
若尾文子の相手役を務めた江原達怡も『思春期』『続・思春期』に出演していて、当時はまだ現役の高校生(子役出身)だった。
青山京子と江原達怡は東宝の所属だったと思うが、出演者クレジットに所属の表示はなかった。
光子と大井晴彦(江原達怡)は同級生で互いに意識しあっている。二人は視線を送ったりそむけたりと初々しいのだが、光子がふと気付くと晴彦が遠くから見ていたりするのがストーカーっぽく見えて笑える。
晴彦は裕福な家の一人息子で、中華料理屋の出前をしている光子を見て、貧富の差の不条理を知るのだった。
時代性と言うにはあまりにも陳腐な台詞がチラホラある。
文学青年たち(そのうちの一人が船越英二)が勢津子に言う「男女関係の経験なくして小説は書けない」という俗説は全く論理的でない。
光子と一緒に弘子を見舞った有川先生(菅原謙二)が、沖縄戦線でひめゆり学徒隊のある少女の初潮を見て「戦争という大きな暴力にも負けずに一個の人間が成長していく力を感じた」と言う。この話で「若いから病気は治る」と弘子を励ましているのだから、よく分からない。
有川先生が生徒に対して寛大すぎると注意する教頭(丸山修)は、有川先生が生徒を信用することにしていると言うのに対して「聞こえは良いが、時としてそのことは教育者としての無能を意味する」と言う。これはなかなかの暴論だ。
伊津子は、妹の勢津子が修学旅行で何かしでかすのではないかと心配で、光子の旅行費用を肩代わりして勢津子の監視役を頼もうと考える。その申し入れを光子の家まで伝えに来るのは、驚くことに川上と有川の二人の教師なのだ。しかも、その旅行費用を預かって来ているらしいから、さらに驚く。
何とも無責任な話だ。
これが、結果的に光子を苦しめることになるのだから。
修学旅行で勢津子がしでかした事がきっかけで光子と晴彦に噂がたち、同級生たちが冷やかしたり囃したてたりするようになる。
二人の噂はたちまち方々に波紋を広げ、教師も、晴彦の母親も過剰に反応する。
伊津子は「勢津子には本当に修学旅行で何もなかったんですね」と光子に問い、その叔父は「何かあって新聞ネタにでもなったら伊津子の結婚が破談になる」と、自分たちの都合だけを主張する。
当の勢津子は二人の噂を面白がって実録小説に書き上げて悦に入る始末。
あまりにも酷い仕打ちたが、光子は伊津子と勢津子に義理立てするのだ。
しかも同じ被害者である晴彦は、光子が真実を話さない理由すら教えてもらえないのだから可哀想だ。
考えてみれば、修学旅行での出来事の真相を勢津子は知っているのだから、実録小説化すれば根も葉もないことの証明になると思うのがだ、これが大ごとに発展するのだから強引な展開だ。
弘子を見舞ったあと、光子と晴彦は城ヶ島海岸へ行く。このロケーションが絶景。
そこでも心ない大人の偏見の目が向けられる。
光子が晴彦に「転校して」と言い出すのにはたまげたが、晴彦には将来があるからというのが理由だった。光子には転校する余裕もないのだろう。貧富格差と男尊女卑を前にして恋を諦めようとする光子が切ない。
追い込まれた若い二人が漁師小屋で一夜を明かすエピソードが、悲恋物語なら心を揺さぶられる場面になるところだが、理不尽な展開に説得力がないから今ひとつ入り込めないのが残念だ。
ただ、そこでの二人が健気で愛おしくはある。
それにしても、勢津子のキャラクターがブッ飛びすぎていて解釈に苦しむ。
女子とイチャつく晴彦を非難するラガーシャツの硬派な男を演じているのは、このシリーズで女の子を泣かせてきた長谷部健なのが可笑しい。
※『続・思春期』の監督は本多猪四郎!
※本作の翌年1954年に三島由紀夫の「潮騒」が初映画化され、青山京子がヒロインの初江を演じているが、本作の勢津子のイメージからはちょっと想像できない…。