続十代の性典のレビュー・感想・評価
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南田洋子が体当たりで主演!
性典女優 南田洋子と若尾文子が引き続き出演したシリーズ第二弾。
前作が1953年2月公開で、本作は同年5月の公開。さらに「続々十代の性典」が同年9月、「十代の誘惑」が同年12月に公開されている。もともと連作として製作されていたのだろうか。間隔が短いが、前作のヒットを受けて本作以降が製作されたのではないだろうかと思う。というのは、南田洋子と若尾文子がすっかり大人っぽくなっているから。
監督∶佐伯幸三
脚本∶須崎勝弥
企画∶土井逸雄
前作とは関連がない完全に独立した物語なのだが、前作よりもストーリーがまとまっている印象はある。前作同様に若尾文子は屈託がなく、南田洋子は思いつめたキャラクターを演じている。
そして、南田洋子のセックスアピールが花開く!
本作では男女4人の出演者が並列でクレジットされている。
・若尾文子
・南田洋子
・長谷部健
・根上淳
滋野夏子(若尾文子)は裕福な家庭の娘で、ミッション系の女子高に通う3年生。自宅の庭は幼い妹と駆け回って余りあるほど広く、父親(見明凡太郎=前作と同じ)なのか父親の会社なのかが保有している広大な牧場で乗馬をするようなブルジョワだ。
同級生の安富秋子(南田洋子)は母と二人家族で、母親(三宅邦子)は夜遅くまでホテルで働いている。その家には秋子の従兄の医大生・三木真人(根上淳)が下宿していて、秋子は真人に恋心を抱いていた。
この真人が夏子の家庭教師を引き受けたことで、秋子のモヤモヤが始まる。
本作の秋子が、前作の かおる に負けず劣らず可哀想なのだ。
物語のエピソードは不同意性交、妊娠、自殺未遂、流産と、よりハードだ。
十代の性の実態というわけではなく極めて固有の状況を描いた物語で、そこに当時の性の倫理観みたいなものがやや大げさに織り込まれているのが、このシリーズの特徴だと言えるだろう。
男にひどい目に遭わされた女子高生がどれだけ苦しむか、これは現代であっても変わらないはずだ。それを性の倫理観がさらに追い詰めていく図式に時代性が反映している。
南田洋子は体を張って演じている。自分の身体の汚れを確認するように鏡に向かう場面などはドキッとする。胸の谷間が映し出されたりして、あの時代の一般映画としてはギリギリのところだったのではないだろうか。
根上淳は、とても大学生には見えない。もう30歳に近かったのではないかと思うが、当時の配役としてはアリだったのだろう。
私の世代にとっては「帰ってきたウルトラマン」のMATの隊長だ。
医大生だからといって、真人の通学カバンに注射器や薬が入っているのは驚きだ。「ボクは医者だ」と言ったりする。学生なのに。
長谷部健が演じるのは傷心の秋子を蹂躙する大学生で、前作では好青年から狼に豹変したが、今回は最初から狼だ。前作のように反省することすらなく、ゲスのままフェード・アウトする。
長谷部健は当時20代後半だっただろうか。
秋子を横目で舐めるように見る目つき、片側の口角を吊り上げてニヤつく口元、本当にいやらしい表情をする。
夏子を先輩の送別パーティーに誘う山川(入江洋祐)は高校生のように見えたが、大学生だった。男子はみんな詰襟の5つボタンを着ているので、高校生なのか大学生なのかが分かりづらい。
入江洋佑は若尾文子らと同い年なのだ。
山川は、夏子にすっぽかされてヤケになり、酔いつぶれて喫茶店(純喫茶ではない、いわゆる特殊喫茶・社交喫茶)のマダムの部屋に連れ込まれて食われてしまう。
翌日、謝りに来た夏子に抱きついて拒絶されるのだから、羨ましいのか可哀想なのか…。
山川もこれだけでフェード・アウトする。
秋子たちの同級生には、ちょっと品がない沼倉役に小田切みき、お澄まし優等生の吉野和子役に嵯峨美智子などがいる。
若尾文子らとは、小田切みきは2〜3歳上だが、一番お姉さんキャラの嵯峨美智子は2〜3歳下なのだから意外な感じだ。
秋子が、真人は夏子が好きなのだと勝手に思い込むのは、夏子に対して劣等感があったからだろうか。
秋子と夏子は仲の良い友人関係で、秋子が夏子を羨んでいたり引け目を感じているようには見えなかった。家庭の貧富の差も学校生活の中ではそれを感じさせる描写はない。
真人の描き方には疑問がある。
真人が自室で論文の執筆にとりかかると、BGMに「エリーゼのために」のピアノが流れ始める。やがて映像はそのピアノを奏でている夏子に遷移するのだ。これは真人が夏子に想いを寄せていることを表していないか。
夏子の提案で、秋子を元気づけようと三人で牧場にハイキングに行くのだが、秋子を放ったらかして真人は夏子をお姫様抱っこしたり、二人で草原をゴロゴロ転がったりして、明らかに夏子の方に気があるような描写だ。
こういうシーンを何のために入れたのか…。
真人が執筆中の卒業論文のテーマは「近親結婚に於ける優生学的可否」で、従妹との結婚を意識して研究していることを学内の教授や先輩たちは知っているのだから可笑しい。
〝優生学〟というとナチスの思想が尾を引いている感じがしなくもないが、一般的にも近親結婚は遺伝的に悪影響を及ぼすと思われていた時代だ。
学内で従妹に思いを寄せていることを公表しているくらいなら、胸を焦がしている秋子本人に伝えてやればいいのにと思うのだが、真人はこの優生学的可否の結果が出るまでは踏み切れないでいるようだ。…おや、彼の卒論でその可否が決まるというのか?
あげくの果てに、教授はそんなことにとらわれず気持ちを抑えるなと言ってしまう。それでは暗に卒論のテーマが無意味だと言ってるみたいで、それはそれで何なんだか…。
女子高生たちは殊更に純潔にこだわる。女子校なので、彼女らは教室で堂々と清らかな処女の純潔を叫ぶのだ。
望まず純潔を汚された少女は、そんな環境で追い詰められていく。
創立記念の学芸会で披露する劇「聖処女ジャンヌ・ダーク」の主役に秋子が選ばれると、処女が演じるべき役だと沼倉が異を唱え、教師の英断で収めるものの物語は急展開してゆく。
沼倉たちが秋子は妊娠しているのではないかと言い出した根拠が「八百屋のおばさんがお乳のあたりがおかしいと言っていた」というのだから呆れるが、秋子の純潔は私が保証すると根拠なく言う夏子が「私より八百屋のおばさんを信じるっていうの?」と言い返すのも、いったい何の議論なのだか…。
果せるかな、八百屋のおばさんは鋭かった。
秋子の純血を信じていた夏子は裏切られたと嘆き、なんだか自分が悲劇の主人公のような気になっているが、むくれた若尾文子はカワイイ。
夏子に代わって献身的に秋子の世話をし始めるのが吉野和子で、立派なまでにお姉さんぶりを発揮するのだが、妙に唐突だ。
そして卒業式の日、映画は一気に大団円を迎える。
沼倉が秋子に詫びるのだが、彼女はどういう情報に基づいて何を反省したのやら…。
秋子を大切に思い、結婚までは清い関係でいようと考えていた真人にしてみれば、秋子を手にかけたゲス男は殺しても足りないほど憎いはずだが、きっと秋子にそれが誰なのかを問い詰めることはしなかっただろう。
だが、当のゲス大学生はその後も乙女を毒牙にかけているに違いない。そう思うとなんとかしてアイツを罰する方法はないものだろうか…ヤサは割れているのだし。
喫茶店のマダムが学生の山川を逆手ごめにしようとするその時、ラジオのボリュームを上げるシーンが何とも淫靡だ。マダムといえど、壁が薄いアパート住まいで、当時は裕福な家庭の子息でなければ大学には進学できなかっただろうから、彼女にとって大学生は高嶺の花だったのかもしれない。
教師役で伊藤雄之助が出ている(嶋田久作でも小籔千豊でもない)。ほんの短い出番だが、存在感がある。
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