おかしな奴(1963)のレビュー・感想・評価
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渥美清の演技が笑えて泣けて、胸を打つ
1963年公開。実在した落語家・三遊亭歌笑の生涯を、「寅さん以前」の渥美清が好演しています。
1916年から1950年、33年という短い生涯を駆け抜けた歌笑は、極度の斜視とエラの張った顔で幼少期から笑い者にされ、また徴兵検査でも丙種合格しかもらえず、あらゆる角度からの"絶望"を胸に抱いたままに実家を飛び出し、落語家の門を叩きます。
渥美清の愛嬌のある笑顔、時折り差す哀愁が良い味出しまくり。
田中邦衛や三田佳子など、まわりを固める俳優陣も(まだ若いだろうに!)とっても良い。
いわゆる”笑いあり涙あり”の作品です。
※歌笑の人生については、wikiを読むだけでも引き込まれるので、ぜひ読んでみてください。
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軍靴の音が鳴り響く時代にあって、登場人物たちは誰もが「自らの意思で人生を選択できない」状況に否応なく置かれます。「何者かになりたい」という情熱は昭和も平成も令和も変わらないはずなのに、時代が、眼前に圧倒的理不尽として立ちはだかる戦争が、彼らの邪魔をします。
戦後ラジオから流れる朝鮮戦争のニュースに顔をこわばらせ、「隣の国じゃもう戦争か」と力なく呟く渥美清の姿は、現在を生きる私たちにも通じるのではないでしょうか。
歌笑は最期、米軍のジープに轢かれて生涯の幕を下ろします。
哀しみは、「終戦」という日付の区切りなどで終わるものではありません。
ラストにある「もう戦争は嫌だって!」という力強い叫びが、観賞後、余韻として胸に残ります。
渥美清、本領発揮す
落語映画といえば個人的には森田芳光の『の・ようなもの』を真っ先に想起する。大学時代に落語名人決定戦で優秀な成績を収めた伊藤克信演じる志ん魚の落語は周囲の落語素人の俳優たちと比較してもなかなか見事なものだった。長い噺をスラスラと紡ぎ出せるのはもちろんのこと、そこへ時宜に応じた変奏を加えてみせる余裕ぶり。落語とは実に一朝一夕の努力ではどうにもならない高等芸能であることを改めて感じた。アニメ『昭和元禄落語心中』でも、ネタを上手く読み上げられることと落語を打つことの間にはただならぬ懸隔があることや、ネタを真に自分自身のものにすることの困難などがしきりに強調されていた。 さて一方の渥美清はといえば、彼もまた幼い頃から落語に通暁しており、その蓄積が落語家・三遊亭歌笑という登場人物を依り代に遺憾なく発揮されているのが本作だ。彼の軽妙にして温和な語り口は聴く者の耳を心地よく刺激し、気がついた頃には抱腹絶倒の渦に巻き込まれてしまっている。 物語としてはポッと出の田舎者が紆余曲折を経てスターダムを駆け上がっていくという古今東西どこにでもある成功譚なのだが、凡庸な感じがあまりしないのはやはり渥美清の演技力の高さゆえだろう。もはやif世界線の自伝か何かなのではないかというほどに三遊亭歌笑というパーソナリティーを自分のものにしている。特に歌笑お得意の純情詩集を謳い上げるくだりなどは舌滑りのよさといい抑揚のつけかたといいもはや聴く麻薬と評するに相応しい出来栄えだ。 もはや新作落語の矩さえ超えて活躍する歌笑の色めきぶりに落語界の排他的な面々は大層ご立腹。遂には彼を寄席から締め出してしまう。そうした逆境にもめげずラジオという活路を見つけ噺家としての命脈を保ち続ける不屈の闘志はまさに戦後派的といえる。初恋相手が米軍の娼婦に身を窶していたり、歌笑が米軍のジープに轢かれてその短い生涯に幕を閉じたりといった描写からも推察できるように、本作が「我々はこの激動の時代とどう向き合うべきか」というアプレゲール的命題を内包していることは自明であり、そういう意味では実に50~60年代的な日本映画だ。 余談だが渥美清は『拝啓天皇陛下様』でも最後に轢かれて死んでいる。ひょうきん者の末路はいつだって悲惨なのだ。男というものつらいもの、顔で笑って腹で泣く。 何はともあれ、『拝啓天皇陛下様』でいよいよ俳優としての名声を高めつつあった、それでいて『男はつらいよ』の「寅さん」にパブリックイメージが固着する前の、言うなれば最も力量と可能性に富んでいた頃の渥美清を拝むことのできる稀有な作品だった。
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