劇場公開日 1966年11月12日

「哲学を語る西部劇」シェラマドレの決斗 猿田猿太郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5哲学を語る西部劇

2022年6月17日
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鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

 西部劇の派手な戦いを期待しては低い評価がついてしまうと思う。どうにもそういう映画では無かったらしい。楽しむために映画を観ようとすると、ちょっと辛いかも知れない。
 冒頭、街の教会に向かった主人公、何があったものか、人を殺したことを、女を抱いたことを懺悔する。そして知人の元に向かう。牧場を建てよう。良い馬を手に入れた。良い暮らしを目指そうじゃないか、と。お前の父親には世話になったのだから。
 その馬は奪われる。その奪った親玉は語る。主人公と同じ、アメリカ人に多くの物を奪われた。だから自分も人から奪って生きてきたのだろう。そうして力を付けてきたのだろう。
 主人公を助ける老人がいる。傷ついた主人公を自分のための墓穴に隠す。生きるのが嫌になったら、自分が入るための墓だという――その老人は拷問を受ける。かつて老人は家畜を奪われた。既にその時、人生に絶望していたのだろう。またしても、羊や山羊を殺され、自らも鞭を打たれた。それでも老人は口を割らない。もはや、生きることに絶望していた。友人を裏切り、生きることを望んでなんになるのだろう――もしかしたら、冒頭で懺悔をした主人公もまた、同じ想いであったのか。
 だが、老人は最後、石を掴んで敵に襲いかかる。最後は戦って死んだ。かつて、懺悔を捧げた主人公もまた、戦いに挑む。けして、馬を奪い返すためじゃない。相手の親玉を殺すと言い放つ。自ら望むことがあるならば、戦いからは逃れられぬ、と。
 なんだか敵の親玉はそれほど悪人とも思えない。途中、腕相撲の勝負というチャンスを与え、煽られたとはいえ、主人公の申し出を受けて、部下を連れずに1対1の勝負を受けた。受けた恩義を返すために生きる主人公、奪い奪われて生きてきた親玉。それぞれの生き方がぶつかり合う決闘は、決してガンマン同士の派手さはなく、知恵を働かせた狙い撃ち。そんな映画じゃない、と言いたげに。
 印象に残ったのは、殺された家畜が飾られた老人のためのぎこちない十字架。そして、広野に立つ赤いドレスのヒロインが実に美しかった。

猿田猿太郎