「時計仕掛けの踊り子」リヴィッド 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
時計仕掛けの踊り子
日本映画の課題は、どやの払拭にある──と思うことがある。
ホラーでもコメディでもアートハウスでも「どうだすげえだろ」感がかいま見えてしまうと、おもしろさが半減する。──というか全減する。
かいま見えるというより、ダダ漏れさせてしまう映画監督が日本には多い、気がしている。もしspecが、どや無しで描かれているのなら、あるいは、もし翔んで埼玉に「おもしろいことやってるでしょ」感がなければ幻滅することもないだろう──などと感じる。
どやの払拭とは、すなわち作り手の気配の払拭である。
日本映画には、監督の威光みたいなものが、画に見えてしまう映画が多い。
個人が抽出したゆえの網羅性の限界はあるが、挙げると、北野武にもあるし堤幸彦にも福田雄一にも瀬々敬久にもある、荻上直子にも河瀬直美にも三島有紀子にもある。・・・蜷川実花や園子温にはそれがあるというより、それしかない。──と思う。
なぜ日本ではそうなるのか、原因はわからないが、おそらく映画/映画監督が権威をともなうものであるという雑ぱくな概念が、日本人にはある──のではなかろうか。キューブリックじゃあるまいし、下野してくれてかまわない──などと思ったりする。
どやを払拭すると、映画の素が伝わる。
とりわけ恐怖のばあい、ピュアになる。
ヨーロッパのすぐれた恐怖映画には、どやがない。
たとえばアレクサンドルアジャのハイテンションや、ジュリアデュクルノーのRAWやパスカルロジェの映画がすごい理由は、どやがまったく無いことに因る、と思っている。
つまりどやの有無は映画の出来を左右する重要素だ──と個人的には考えている。
屋敷女の製作陣によるホラーで、蠱惑的だった。
デヴィッドボウイのようなヘテロクロミアの少女が主人公。寄らなくてもわかる、そうとうな色の差だが、じっさいのChloé Coulloudは違うのかもしれない。美しいうえに肉感的で、なまめかしい。正直なところmassiveなbreastが気になった。
筋は常套から外れている。
個人的な感慨だがヨーロッパの恐怖映画の女性は前提として脅迫観念を背負っている。
暗い過去や、癒やされない慚愧が、前段で描かれる。
そのポゼストによって、まず、どっしりとした暗幕を背景する。
根幹にズラウスキーのようないびつな現実世界があり、そこから異界や流血へ持っていく。
というより、なにより、基本的に、善人が善行をして、悪人が悪事をはたらく──という、日本映画世界とは異なる景色がひろがる。先行きを想像させない作り方にヨーロッパがあった。
が、導入はつかむが、中段の展開はさくさく行かない。さらに、闇夜によって画が暗すぎる。それでも、グァダニーノ版のサスペリアやRAWを思わせる見たことのないゴシック世界はじゅうぶんに楽しかった。