「歓待とは程遠い偽善を描く」歓待 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
歓待とは程遠い偽善を描く
他者を歓待することの苦手な日本社会。見慣れぬ者、異質な者に対しての態度は警戒ということ以外無関心が占めるのみである。
この国の「おもてなし」とは、予期し得る同質の存在に対するものであって、異質な他者に向けられる歓迎の行為ではない。
下町の小さな印刷業者の夫婦は、最初の他者である古館寛治を受け入れるも、それは歓待とはほど遠い渋々ながらの受け入れであった。温かみやホスピタリティに欠けるこの夫婦を批判的に観ることは、しかしほとんどの人間には出来ないであろう。誰しもが、良く知りもしない他者を自宅に住まわせることなど気が進まないものである。
この映画を撮っている、カメラの後ろにいる人々の「自分だってこんなことがあったら嫌だし、この夫婦と同じことを思うだろうな。」という正直な気持ちが、観ているこちらにも伝わってくるのが面白い。監督の深田晃司も、製作と出演の杉野希妃も、おそらくは自分たちの正直なところをスクリーンに映し出そうとしたのではないだろうか。
なぜなら杉野が演じる印刷業者の後妻が、どれほどに偽善の塊であるかということを、映画は執拗に描くのである。
夫の連れ子である小さな女の子に彼女は英語を教える。だがしかし、国籍不明の白人女性がこの家に闖入してきた途端に、彼女の教える英語がどれほどのものでもないことが明らかになる。彼女自身がその英語の程度を自覚していながら、本当の母親にはなれないという言わば自分の瑕疵を英語教育によって穴埋めしようとしてたに過ぎない。
そして、夫に頼まれてしぶしぶ出かける町内会の会合でも、河川敷を不法に占拠してるホームレスの寝床を撤去する話し合いをひたすら傍観する。彼女にとってそのホームレスが何の関わり合いもなく、まして少しの迷惑すらも受けていないということに違和感を感じながらも、時間の過ぎ去るのを無言で待ち続ける。
古館が連れてくる外国人や犯罪者たちのドタバタに目を奪われて、これら偽善に満ちた杉野の姿は見過ごされがちだが、非常に重要なメッセージを含んでいると思う。
つまり、国際交流を標榜していても他者を理解しようとする意欲には乏しく、思いやりや優しさに価値を見出す言説が満ち溢れようとも都合の悪いことや自分には関係のないことには口を閉ざすのがこの社会にありがちなことではないかと。