「日本の観客にとって縁遠さを感じて眠気を誘われるものの、崇高な信念をもって描かれた作品だと思います。」神々と男たち 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
日本の観客にとって縁遠さを感じて眠気を誘われるものの、崇高な信念をもって描かれた作品だと思います。
実話であり、公開されたときフランスでは社会問題にまでなった作品。その重みというのは、ヒシヒシと感じさせるものはあります。しかし、キリスト教とは縁遠い、日本の観客にとって、この物語で問われる修道士たちの殉教の是非は、どうしても縁遠さを感じてしまいます。まして、高僧の修道士の監修がついたため、全編のほとんどが聖歌で埋め尽くされ、ミサのシーンがやたら冗長に感じられるため、不謹慎ですが眠気を誘われてしまう作品でした。
しかし2010年のカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを取った作品で、惜しくもパルム・ドールを次点で逃がしたと言うだけに、映像表現の点では個性的な特徴を持った作品です。映画通で宗教間の対立にも関心を持つ人なら、必見の作品でしょう。
作品の舞台は1996年のアルジェリア。ここに当時派遣されたキリスト教のトラピスト会に属するフランス人修道士7人が拉致・虐殺される事件が起ったことを再現したドラマです。その時、武装イスラム集団 (GTA)から犯行声明が出されましたが、真相はいまだ謎のままのようです。
1世紀を超えるフランスの支配から、事件が起きる4年前の62年にアルジェリアは独立しました。その間に自国の言葉、宗教を禁じられた歴史には、独立に向けた民族感情が渦巻き、内戦が続いてきたのでした。グザビエ監督は、そうした背景をさりげなく描きつつ、あくまで修道士たちのゆく末を見つめる視点に徹しています。
彼らが修行する修道院は、首都アルジェから90キロのティベリンという山あいの地に、38年に創設されました。しかし、社会主義化によって布教は禁止され、所有の土地・農園は接収されてしまうけれど、使用は許され、医療奉仕も認められました。つまり修道院の存続自体は認められたのです。
そこで修道士たちは、養蜂業に励み、市場で蜂蜜などを売って、質素に祈りと労働の日々を支えていたのです。
ここで注目すべきは、院長のクリスチャンは、コーランを日々研究していて、イスラム教徒の集まりにも喜んで参加し、お互いの教えの共通点を理解。宗教的にも、みな兄弟であると、イスラム教の村人と語りあうというところ。修道院は、地域の医療を支え、また日々の心の拠り所にもなっていることから、村人たちから欠かせない存在になっていたことです。この宗教の違いを超えた友愛関係は、イスラムとユダヤとキリスト教の原理主義が相克し合う現代で、教訓とすべきところでしょう。
もとよりこの3つの宗教は、主なる存在から使わされた預言者による教えとして、元々は一つの教えから別れた兄弟宗教です。
だから、最初にGTAに襲撃を受けたとき、クリスチャンがテロリストのリーダーに、コーランに基づく隣人愛を説いたとき、リーダーがその言葉に感銘して、握手を求めたように、基本的なところでは類似している教えが多いのです。
クリスチャンという宗教家の優れているところは、『汝の敵を愛する』という聖書の教えを実践し、異教徒も排斥せず、理解しようとしたところです。そこにこの修道士の愛の深さを感じさせました。
しかし、その愛の深さが徒になっていく、後半は見ていて残念でなりません。一度テロリストとわかり合えたという成功体験は、修道士たちを主の導きで和解できた。愛と信仰があれば、何も問題ではないという信仰心に導いていきます。
ここで、修道僧たちを最初から高邁な殉教者としては描いていないのはいいと思います。彼らも、一人の生身の人間として、残してきた家族のことも思い、悩み、苦しみます。地元住民からの強い残留要望を受けたとき、ここを去ることは、愛の敗北であるとし、、運命に向き合い、勇気ある決断をするのです。
それはあたかもイエスさまの殉教をなぞられているかのような描写です。テロリストが再度押し寄せてくる晩に、彼らは何かに導かれるようにして、テーブルを囲み、赤ワインを、酌み交わします。それはまるで「最後の晩餐」の光景を彷彿させるものでした。
チャイコフスキーの「白鳥の湖」が流れる中、カメラはゆっくりと移動しながら、修道院の食堂に集った僧ひとりひとりの顔を陰影豊かに映し出していきます。達観と諦念、笑いと涙、喜びと悲しみ。表情はそれぞれ違えど、彼らは確かに残り少ないいのちの灯火を精一杯輝かすかのようなシーンでした。きっとクリスチャンの方でしたら、涙を禁じ得なるだろうと思います。
そして印象深いのは、「最後の晩餐」の包む「漆喰の闇」と、彼らが誘拐されて、夜が明けテロリストに連行される時の、一面の白い銀世界の対比です。
闇は、彼らに苦難が迫っている暗示であり、白銀は、彼らの苦難に対する許しであり祈りを暗示させたのでしょう。自分たちの死は無駄死にでなく、民族間の愛と和解のために身を捧げたむのだと語るクリスチャンの毅然とした最後の言葉に感動しました。彼らの灯す、ささやかな光の美に、きっと心ふるわせることでしょう。彼らは確かに「一粒の麦」となり得たのです。
ただ、この物語。小地蔵には平和ボケした日本人の頑迷さが気になって仕方ありませんでした。「平和憲法」というお題目を信じていたら、テロリストたちともわかり合えるものでしょうか。確かに、これまで上辺でわかり合えてきたから、武力行使に至っていませんでした。しかし現実は、信じているだけでは、そう甘くないということです。相手は刻々と変化して、やがて日本を核で恫喝する時代がやってくるかも知れません。
また宗教的にも、逃げなかったことが、相手に誘拐から殺害までの罪を引き起こさせてしまいました。智慧として、それが予想されるのなら、とっと逃げて相手に罪を起こさせないという戒も必要だったでしょう。それを信仰でごまかして、殉教してしまうのは、智慧が足りないと思うのです。
イエスさまだって、ずいぶん天使たちが、声を大にして逃げろ!と呼びかけたのです。結局逃げずに、人類の罪を一身に背負われて、刑場の露と成りはてました。このあと復活があって、キリスト教は世界宗教となり得たわけです。しかし、正味教えられた期間が3年半という短い時間だったので、弟子たちの教育も不十分となり、輪廻転生など霊的な人生観が充分後世に残せませんでした。それが後の時代に、愛に反する残虐な魔女狩りを行うキリスト教を生んでしまったのです。イエスさまが逃げ延びていれば、キリスト教の教えも、もっと悟りにおいて高度なものになっていたことでしょう。
だからずっとこの映画を見ていて、小地蔵は修道士たちに、いいから早く逃げろよ~と心から叫んでいたのです。