劇場公開日 2009年5月16日

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「リアリティーが無くても良い作品と言えるポイント」おと・な・り こもねこさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0リアリティーが無くても良い作品と言えるポイント

2009年6月9日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

この作品、状況設定にリアリティーが欠けている。出す音による隣人トラブルが多い昨今、となりから聞こえてくる音に耳を澄ます、という行為が、今どきあまりない話だし、主人公の名が知られたプロのカメラマンや30代の女性が住むアパートにしては、壁の薄い、古さばかりが目につきすぎる。最初は、その今どきではないところばかりが気になっていたが、物語が進むにつれて、主人公二人の生身の人間が現れてくると、リアリティーの無い部分が逆に、この作品の魅力に感じてきた。

登場する二人の主人公は、確固たる自分の目標がある。だから希望で胸を膨らまして毎日を過ごしているのだが、ある日突然、二人同時に自分の心にグサリと突き刺すことが起きる。それは、目標に向かう自分が、自分そのものや他人を犠牲にしていること、その犠牲に対して言い訳をしながら生きていることを、正面から突きつけられてしまうという、自分そのものを根底から覆してしまうことだった。そして、二人はそれぞれに悩み、苦しむのだが、そこで気づくのが毎日聞こえてくる隣の音の心地良さである。
カメラマンの男性は隣人の女性の声に、その隣りの花屋の女性は薄い壁から聞こえる珈琲豆をひく音やカギ束の音に、いつも心惹かれていた。それは、顔がない、音だけの隣人との繋がりに、純粋なものを感じていたからだ。この作品を純愛映画と定義づける向きもあるようだが、最初に感じたリアリティーの無さが次第に気にならなくなる、我々観客には、二人の純愛ではなく、日々の生活の中で失ってきた純粋さに、音ひとつに人の心のヒダがあることを、この作品から気づかされる。私は、この作品には純愛以上のものを感じずにはいられなかった。

この温もりを感じる物語にケチをつける個所はないのだが、ひとつ気になったのは、カメラが揺れすぎることだ。監督の意向として、人の目線のようなものを表現したかったと思うのだが、固定しなさすぎて、とても見づらいと感じるシーンがいくつもあったのは、せっかくの作品の良さを損なっているようにも感じた。せめて人物や背景全体のシーンくらいは固定で撮ってほしかったと思う。

ある雑誌に、この作品のアパートの撮影が鎌倉の駅前で行われたとの記事を見つけて、ふと、連休中に行った鎌倉のとあるひとときを思い出した。
五月の初めの鎌倉は、あちらこちらのお寺の境内でうぐいすが啼いていた。とあるお寺で、啼いているうぐいすを見ようと立ち止まって林の先を見上げていたら、見知らぬ若い女性から定年過ぎた男性や女性たちもいっしょに見上げて、気が付いたら十四、五人くらいでうぐいすを探していた。たいして会話などしなかったが、そのときは、うぐいすの啼き声だけでたくさんの人たちの心がひとつになったような気がした。それは今思えば、この「お・と・なり」が描いてみせた、音ひとつが人を純粋にさせる一瞬だったのかもしれない。

こもねこ