劇場公開日 2008年10月18日

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「そこそこ面白い」真木栗ノ穴 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0そこそこ面白い

2024年10月3日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

2007年と少し前の作品だが、その根底にある概念は深い。
「この世に矛盾が蔓延り、終末が近づいている。どうやら私たちの世界が、ある一人の男の空想であることが、近く発表されるだろう」
この最後のメッセージは、量子力学を突き詰めてゆく先に見えてくる宗教的世界観との合流を表現したと思われる誰かの言葉だが、村上春樹の小説『1Q84』にも登場する言葉だ。
この世界を究極に突き詰め「この世界を表現した」言葉でもある。
作家はそれをホラー作品として体現したのだろう。
さて、
主人公真木栗が認識する世界
それは我々が認識するものとは少々違っている。
それを単に霊の仕業だとするのではなく、その物語、つまり現実を書いているのは「自分以外の第三者」だとしているところがこの作品の面白さだ。
現実とは、認識である。
起きる出来事は、その見え方は認識によって異なってくる。
認識できなければ見ることさえできないというのが、最新の量子物理学だ。
真木栗は無意識的に、つまりこの物語では霊力によって幻想を見ていたと、一般的に解釈されるだろう。
彼はひょんなことから依頼された官能小説の連載に悩んでいた。
そして宅急便や配置薬営業と、隣に住む比較的若い女性とを彼自身がつなぎ役となり、想像した内容を小説に書く。
しかしそれがことごとく具現化されていく。
やがていつもの宅急便配達員が行方不明となっていることを知り、新聞で死亡事件として扱われている記事を読む。
同様に配置薬の営業マンも自殺したことを知る。
しかしこれは彼がまだ書いていないことだ。
ここが推理ものとホラーものとが混ざり合う場所。
となりの荷物とは男の荷物であり、それを真木栗が妄想したのだろう。
自分では事実を書いているつもりだが、それは妄想であり、彼自身どこまでが妄想でどこが現実なのかをすでに認識しきれていないことが伺える。
特に最後の町中華のシーンでは、時間さえ逆行しているかのようだ。
誰かの空想だから矛盾がある。
それは終末の所為。
人生で起きる出来事は、誰かによって作られたもの。
量子力学の曲解
でも面白さがある。
特に終末という表現は、当時がまだノストラダムスの大予言から抜け出していなかったからかもしれない。
真木栗は確かに原稿を書き、それが連載された。
霊に憑りつかれたアパート
いるはずのない女
宅急便屋と配置薬屋は本当にミズノサオリを訪ねたのだろうか?
二人の死は現実なのだろうか?
アパートへ行くための山をくり抜いたかのようなトンネルは、この世とあの世の境界線なのだろう。
取り壊しが1か月後に迫るアパート
背むしのじいさんは実はアパートの管理人で、彼もまたミズノサオリに憑りつかれているのかもしれない。
不自然過ぎる感性のミズノサオリ
真木栗の妄想の産物
部屋にサンドバッグなどありえない設定の男
そして「穴」
穴があっても自分は絶対覗かないと言った編集者のアサカナルミ
でも、真木栗がいない時に穴を覗いた。
しかしその穴は覗けるようなものではなかったが、真木栗が穴をあけようとしていた形跡はあった。
それはまさに真木栗がアサカを断罪したことが起きた瞬間だった。
嘘 正当化する行為 誰もがするはずなのにしないとうそぶく。
アサカが仮に本心で覗かないと言っても、それをさせる「何か」がいるというのを、この物語は言いたかったのだろう。
自分自身の意外な行動
誰かの隠し事を暴こうとする行為
それは、私ではない誰かが私の言動を作っているからだと、この作品は言いたいのだろう。
時間のループさえ「この現実世界」では自然なことで、それに驚愕する一人の男を描くことで、この世界の知られざる矛盾を描いてみたのだろう。
汲み取ると面白さがわかるものの、少々どっちつかずの作品でもあったように感じた。

R41