四月(1962)のレビュー・感想・評価
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旧市街の恋人たち。団地の恋人たち。白昼夢のような実験性のなかで、ジョージアの在り方を問う。
紹介されている粗筋以上に、実験的で挑発的な内容でびっくり。
ジャン・コクトーの『詩人の血』とか、シュヴァンクマイエルの諸作を思わせる、白昼夢のような構成。でもそこに、上記2作にはない、「人間に対する温かく優しい眼差し」が感じられる。
また、たとえば前衛的といってもアラン・ロブ=グリエのような難解さはなく、無声映画のドタバタ喜劇の延長上で楽しめる「気安さ」がある。
とはいえ、描かれているのはおそらく、人間の生き方や尊厳をおかしていくソヴィエト連邦のやり口に対する、痛烈な皮肉と抵抗である。
今回の映画祭のキャッチフレーズに使われている、「反骨精神たっぷりのユーモアと、ちょっとした幸福」という言葉をまさに体現する、若きイオセリアーニの所信表明のような作品だ。
前半は、若いアベックが逢引しようとするのだが、どこに行っても邪魔が入って接吻できない様子を、坂と廃墟の目立つ旧市街を舞台に描く。
すべての動きに「効果音」が付けられ、台詞なしに「音」だけで状況を説明していく特異な演出。
街中のあちこちに点在する笛吹きやチェリストといった音楽家たち。BGMのかわりに、彼らの奏でる音色が「効果音」とともに空間を充たす。
恋人たちが、お互い先回りして待ち伏せし合う駆け引きは、デビュー短編『水彩画』の追いかけっこを想起させる。二人は物陰で口づけしようとするのだが・・・・・・睦言を妨害するのは、一様に同じような格好をした「家具を運ぶ」男たちである。
椅子や衣文掛けやタンスを運び続ける、黒っぽい服で帽子を被った男たちは、あたかも『働く細胞』の赤血球のようだ。彼らがどこから家具を運び、どこに持ち込んでいるのかはよくわからない。だが、彼らは際限のない「労働」と、個性を喪失した「全体主義」と、モノに依存する「物質文明」を象徴しているかのように思われる。その背後に、ソヴィエト共産党の計画経済と物質主義への批判があるのは、自明のことだ。
そもそも「恋人たち」や、「芸術家たち」と、ソヴィエト連邦の在り方は、相容れないものがあるのだ。
恋人たちは、街を抜け出し、丘の上に立つオークの木の下で、ようやく口づけを交わす。
まわりで放牧された牛たちはパウルス・ポッテルの牧牛画を思わせ、そそり立つオークの形状はメインデルト・ホッベマの描くオークを想起させる。)
それでも二人は、作中で建設が始まり、あっという間に完成した新築のアパートに移住する。
街中でそれぞれ曲を奏でていた音楽家たちも、同じアパートに集められる。
おそらく、アパートはソヴィエト連邦と共産党支配のメタファーであり、芸術家たちがその管理下に置かれたことが示唆されているのだろう。個別の場所で美しく歌っていた楽器たちも、一カ所に集められて好き勝手に鳴らされると、単なる騒音に堕してしまいかねない。
ヴァイオリンが奏でるラロの『スペイン交響曲』の第一楽章第一主題が耳に残る。
とはいえ当初は、二人が口づけを交わすたびに、電球が灯り、水道の蛇口から水が溢れ、ガスの炎を吹きだす。まさにシュヴァンクマイエルの世界だ。
音楽家たちも、アパートの窓ごとに各々筋トレしたり、バレエのレッスンをしたり、吹奏楽をやったり、チェロを弾いたりしながら、うまく調和を保ち始める。こちらのドールハウスのような描写は、少し遠藤彰子の絵画を思わせる(そういや最近似たようなシーンを観たなと思って脳内を検索したら、『マッドゴッド』だったw)。
ところが、ここにも「家具」をもった連中が大挙して押し寄せてくる。
今度は、お仕着せの労働者ではない。ここにこれから住むだろう住人たちが、自ら大量の「家具」――物質文明と画一性のメタファーを抱えてやってくるのだ。
騒音に脅かされる芸術家たち。彼らは「窓」を閉め、「鍵」をかけて部屋に閉じこもる。
このアパートの管理人は、カジモドのように背中の曲がった小男で、彼はそれぞれの部屋を覗き見ながら住民の生活を監視している。管理人は何もない部屋で睦みあう恋人たちの元を訪れ、ガラス食器や調度品で埋め尽くされた他の部屋を覗かせ(このへん、ジャン・コクトーの『詩人の血』っぽい)、「物質文明」を導入するように要求する。一挙手一投足ネジ巻き人形のような音がする管理人は、さながら地獄から人を堕落させにやって来た誘惑の傀儡、メフィスト人形のようだ。
管理人が椅子を持ってくる。テーブルが増える。花瓶が増える。
気付くと部屋は調度品だらけに。
管理人が今度は「鍵を」もってくる。どんどん増えていく鍵。
電化製品も増えていく。冷蔵庫。扇風機。掃除機。音楽を阻害する機械音。
物欲。所有欲。「物質文明」に犯されたカップル。
もはや二人が口づけを交わしても、電球は瞬かないし、水道水も流れない。
倦怠感のなかで二人は口喧嘩を始める。
(二人が話すのは、ジョージアの言葉ではなく、完全な「人造言語」らしい!!)
愛し合っていたはずの二人。
彼らに幸せなひとときは再び訪れるのか……?
比較的に受け止めやすいメタファーのなかで、若いカップルの瑞々しい恋と「社会」の軋轢が描かれる。シリアスなテーマを扱ってはいるが、イオセリアーニは殊更深刻ぶらない。
白昼夢のような幻想美と、無声映画のノスタルジー。
ひたすら「音」にこだわった、音響の映画としての実験性。
登場人物への優しい眼差しと、残酷さに傾斜しない品の良い風刺。
50分程度という中編としての長さも、ちょうどいい気がする。
今見てもまったく古びていない、実に「映画らしい映画」で、じゅうぶんに堪能した。
目の前の仕事を片付けて、週末の関西見仏行から帰ってきたら、またひきつづきイオセリアーニ作品を観ていきたいと思う。
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