蝶の舌のレビュー・感想・評価
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この作品が二十年ほど前の日経新聞の映画評で紹介されていたのを、今...
この作品が二十年ほど前の日経新聞の映画評で紹介されていたのを、今でもよく覚えている。今日に至るまで、この新聞の映画欄は「信頼できる」と思い、映画館通いの参考にするきっかけとなったのだから。
二十年を経て観た映画は、この間に我が家で生まれ育った子供たちと主人公の少年モンチョとを重ね合わせることから、私が免れることを許さなかった。
果たして、彼らはモンチョのように、それぞれの「蝶の舌」に出会うことがあるのだろうか。
映画を観れば誰でも分かることだが、モンチョは蝶の舌を観察する機会には恵まれなかった。それは、本人の力の及ばぬことが原因であったり、モンチョ自身がチャンスを手放してしまったりと、様々な要因が重なった結果だ。
人生のほとんど全てが、本当はそうであるように、モンチョにとってのささやかな希望である、蝶の舌を顕微鏡で観察するという楽しみもまた、たった一つの原因が遠ざけているわけではない。
そのことを冷静に見つめる老教師の眼差しの、なんと慈しみ深いことであろう。自分の役割が、自分を取り巻く世界に興味を抱いた子供が、その探求を深める後押しをすることだと理解し、辛抱強く実践している。
フランコのクーデターの煽りで、共和派の先生も収監される。母親に促されて彼に罵声を浴びせるモンチョの複雑な内面をみごとに映し出したストップモーション。
善悪や愛憎を超越した感情を知るには幼すぎる彼と同様に、観客もまた、怒りや悲しみを超えた感情が表象された瞬間に取り残される。
アカ!
大好きだった、愛していた人に投げつける侮蔑の言葉。人間は束になればなるほど、その本質を剥き出しにする。
「アテオ!アカ!」に意味はない。共産主義が絶対悪なのではない。
私達はただ、排他に同調しているだけである。
私達はただ、排他に同調したいのである。
私達はただ、誰かを排除することによって、自らに牙を向けさせないようにしたいのである。
「アカ」の意味もわからない幼きモンチョの目には、グレゴリオ先生は、私達人間は、一体どの様に映ったのだろうか。
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