「丸裸にする映画」イディオッツ レントさんの映画レビュー(感想・評価)
丸裸にする映画
障碍者の振りをして社会の偽善に異議を唱えるパフォーマンス集団「イディオッツ」。そのリーダー格ストファーはこの今の成熟した社会で人の心が満たされることはない、愚者こそが社会のすべてのしがらみから解放された真の先駆者たりえる、だからこそ愚者に少しでも近づくために芝居をするのだと言う。
それを聞いたカレンは本当の障碍者を愚弄することになるのではないのか、それをどう正当化できるのかと彼らと行動をともにしながらも納得できないでいた。
そもそも彼らメンバーたち自身がそれぞれに悩みを抱えていて中には投薬を受けていたものまでいて、いわば彼ら自身が潜在的な障碍者とも言える。メンバーの大半は医師や教授職など社会的地位のある人間ばかり、ストファーはブルジョワの出で、アクセルも育休中の広告マンだった。
行き場のないカレン同様にそれぞれの実生活でストレスを抱えた孤独な彼らが自然と集まり、ストファーの提案で始めたパフォーマンス。バラバラだった彼らが皆で団結して一つのことを成し遂げていく。自然と仲間意識が芽生え、さらにその活動が社会でタブー視されることだけに余計に彼らは共犯者のごとく結束を強めていく。後に彼らメンバーが語るように互いを認めあう家族のような関係にまでなっていた。
しかしそんな彼らの関係にもやがてひずみが生じ始める。そもそも彼らは社会の偽善を暴くと言いながら、グループを率いるストファーなどは障碍者を蔑んでいた。彼は親睦に来たダウン症の人間たちに対してガス室に送り込めだの、カメラに奴らの遺伝子が写らないのが残念だなどとナチス顔負けの暴言を吐く。愚者を憐れむ社会の態度を嫌いながら愚者を一番蔑んでるのは彼自身なのだという自己矛盾を抱えていた。そんな彼をリーダーとするグループメンバーたちの自己欺瞞も次第に暴かれていく。
彼らのパフォーマンスは公共の場のありとあらゆる場所で行われ、それは次第にエスカレートしてゆくが、やがてはその目的を見失い身内のいじめにまで発展する。ストファーは日ごろから気に食わないイエップを暴走族にゆだねてその場を離れてしまう。恐怖に打ちひしがれたイエップはその場から走り去る。
そしてグループ崩壊の危機がついに訪れる。メンバーの一人が家族に連れ戻されるのをなすすべもなくただ黙って見ているしかなかったのだ。家族同然という彼らの結束が乱れ始める。
このグループの存在意義をあらためて証明するためにストファーは選ばれたものは自身の実生活の中で愚者を演じて見せろという。しかし次々とメンバーは脱落し、グループは結局解散となってしまう。
誰もが自分の生活を壊したくはなかった、ここでの活動はいわば息抜き、自分の実生活を維持するための一時的な避難場所でしかなかったのだ。それは屋敷を貸してくれた叔父の前ではその場を取り繕うことしかできなかったストファーも同じだった。
社会の偽善の皮を剝ぎ取り丸裸にしようとしたイディオッツのメンバーたち、彼らも所詮は愚者たりえず、自分たちが欺瞞に満ちていたことが露呈する。社会を丸裸にするはずが彼ら自身が丸裸にされてしまったのだ。
しかしグループ最後の加入者カレンだけは違った。そもそも彼女には守りたい生活などなかった。彼女は自分の子を亡くしたのを機に抑圧的な家庭から逃げ出していたのだ。
メンバーの一人スザンヌを立会人として実家に戻ったカレンは皆の前で愚者を演じる。それは今まで自分を縛り付けてきた抑圧から解放されたいがための彼女なりの必死の自己主張だった。二週間も行方不明だった彼女を心配するでもなく平手打ちをくらわす夫、同じく彼女への慰めの言葉を家族の誰一人も発しようとしない。カレンはそんな家族に決別を告げたのだ。すべてのしがらみを脱ぎ捨てて裸になった彼女だけが愚者になりえた瞬間だった。
全編にわたりモキュメンタリー方式で描かれる本作、見るに堪えない映像が次々と展開するが、それが見る者の常識や倫理観を剝ぎ取り丸裸にしようとするかのようでとても挑発的でもあり魅力的でもあった。
配信でノーカット版で見れたのが良かった。これはモザイクかけてしまったら作品の意図は伝わらないと思う。
個人的には不謹慎とはわかっていても、広告マンのアクセルの浮気相手のカトリーナが取引相手として現れ、彼の前でイディオッツを演じるところや、イエップが全身タトゥーの強面グループに囲まれて逃げられなくなりトイレの世話にまでなるところが単純に可笑しかった。笑っていいものかどうか見る者を悩ませる点もトリアー監督の思う壺にはまってるのかもしれない。