劇場公開日 2024年11月8日

「ヒッチコック・オマージュとエラリー・クイーンの影。アルジェント動物三部作、第二弾。」わたしは目撃者 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5ヒッチコック・オマージュとエラリー・クイーンの影。アルジェント動物三部作、第二弾。

2024年11月19日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

ダリオ・アルジェント自身は、
『わたしは目撃者』のことが
実はあまり好きではないらしい(笑)。

デビュー作『歓びの毒牙』がヒットしたことで、資金は集まったかわりに、さまざまなところから仕上がりに口出しをされて、必ずしも自身のイマジネーションを発揮できた作品とは考えていないとのこと。

たしかに、『わたしは目撃者』は、ダリオ・アルジェントの撮った初期のジャッロのなかでは、少し「薄味」というか、「アルジェントらしさ」に欠ける部分がある。
出来自体はそう悪くないし、ふつうに面白く観られる映画ではあるのだが、あまりにふつうというか、「よくあるヒッチコック風のサスペンス」にこぢんまりと収まってしまっている感がある。

これが、出資者の干渉による結果か、
アルジェント自身が出資者に気を使ってしまったせいか、
あるいは共同脚本のダルダノ・サケッティが招いたものなのかはよくわからない。

なんにせよ、個人的には、
①真犯人の設定がいつになく淡泊である。
②犯人を追及する手がかりが貧弱である。
③殺人シーンの変態度・偏執度がゆるい。
④せっかくの探偵役があまり活躍しない。
⑤「盲目」という設定を生かせていない。
⑥納骨堂のシーン以降の編集がおかしい。
⑦今となってはXYY染色体の話がヤバい。
といった点でいろいろ問題があり、他のアルジェント作品と比べて、辛めの点数を付けざるを得ない。

一方で、彼の「ミステリ」「サスペンス」的要素のルーツについて考えるには、いくつかの面で興味深い示唆に富んだ作品でもある。

まずはなにより、原題が興味深い。
『九尾の猫(Il gatto a nove code)』。
本格ミステリ・ファンなら誰しもが知る、エラリー・クイーン中期の傑作『九尾の猫(Cat of Many Tails)』(1949)と同じ意味のタイトルだ。クイーンの『九尾の猫』自体、NYで連続絞殺魔が跳梁する「サイコ・スリラー」「シリアル・キラーもの」の原型ともいえる作品であり、これはすなわち、イタリアにおける「ジャッロ」の源流ということにもなる。
『スリープレス』(2001)の特典映像では、アルジェントがエラリー・クイーンの愛読者であり、『スリープレス』が『Yの悲劇』にインスパイアされた作品であることを明らかにしている(別のインタビューではアルジェントはアガサ・クリスティのことも絶賛している。要するに彼はイタリア人でありながらフーダニットの本格ミステリが大好物なのだ)。
さらに、『トラウマ』(1993)を観れば、その霊感源として、アルジェントが『九尾の猫』を読んでいることは、ほぼ間違いないと思われる。犯人の設定から動機、殺人方法に至るまで、『トラウマ』には『九尾の猫』からの影響が色濃く感じられるからだ。

ちなみに、『わたしは目撃者』のなかでの「九尾の猫」の扱いは、九つの魂を持つ猫化け、魔女の使い魔といったものではなく、刑罰用の鞭の一種として軽く言及されるだけである。なんでも、長さの違う9本の縄にいくつかの硬い結び目がある鞭で、たたかれるとめちゃくちゃ痛いらしい。
ただ、アルジェントがクイーンの『九尾の猫』を知っていた(読んでいた)可能性は高く、連続殺人ものの映画タイトルとして引っ張った可能性は十分にあるように思われる。
ネタも同じ「絞殺魔」だし、何より、「盲目の名探偵」という妙に古風な設定が、クイーンの生み出した「耳の聞こえない名探偵」ドルリー・レーンを彷彿させる(ちなみにアルジェントは本作の演出において、「口のきけない障碍者ヒロイン」が登場するロバート・シオドマクの『らせん階段』(46)を参考にしたらしい)。
それに、この話はつまるところ、まさに「XとYの悲劇」と言っていいような内容ではないか。
アルジェントとクイーンの関係性は、決して無視できないものといえそうだ。

それから、本作では露骨なまでのヒッチコック・パロディが印象に残る。
まずは、カトリーヌ・スパークがジェームズ・フランシスカスをドライブに誘い、刑事たちの尾行を荒っぽい運転で振り切って、丘陵地のカフェでデートするシーン。
あれは、カット割りも含めて、あからさまにヒッチコックの『泥棒成金』(55)(グレース・ケリーがケーリー・グラントをオープンカーに乗せてぶっ飛ばすやつ)へのオマージュだ。
牛乳の入ったコップを持ったジェームズ・フランシスカスの手がカトリーヌ・スパークに迫っていくあたりは、一見してわかる『断崖』(41)のパロディである(こちらはケーリー・グラントの旦那が新妻のジョーン・フォンテーンに牛乳を持って近づいていく)。
ラストの屋根での大立ち回りは、もちろん『めまい』(58)を意識したものだろう。ほかにも、そこかしこにヒッチコックを意識したと思しきカメラワークが散見される。

全体のノリとしても、「ジャッロ」ぽいというよりは、「全世界的に通用するようなオーソドックスなサスペンス映画」を目指している気配があり、ロマンス要素の拡充やお笑い要素の導入、わかりやすい探偵役の登場など、アルジェントが「ふつうであることにすり寄っている」感じがどうしてもつきまとう。僕のようなアルジェント信徒&『サスペリアPART2』絶対主義者にとって、それはまったくの不見識に他ならないわけで、その分、評価も辛くなるということだ(笑)。

とはいえ、『サスペリアPART2』から『黒猫』(『マスター・オブ・ホラー』内の中編)にいたる中期の諸作品においては、イタリアの巨匠ホラー監督マリオ・バーヴァからの影響がずいぶんと色濃いことを考えると、初期の動物三部作において、アルジェントがエラリー・クイーンやアルフレッド・ヒッチコックに私淑する様子が見られる点はじつに興味深い。

以下、細かい点について箇条書きにて。

●アルジェント自身は、ヒッチコックや本格ミステリからの影響以上に、本作はウエスタンから影響を受けていると主張している。西部劇によく出てくるような盲目の老賢人と、血気にはやった若者のガンマンの取り合わせということらしい。
西部劇関連でいえば、新聞記者がひげをそるシーンは『ミスター・ノーボディ』とか『星空の用心棒』の床屋のシーンを想起させるところがある。

●この時期のアルジェントはまだ、三原色のライティングを用いた照明演出を行っていないが、冒頭の少女の着る赤い服と盲人の赤いネクタイ&赤い車の闇のなかでの対比や、黄色い暗室でのカメラマン絞殺、真っ赤なXとYで構成された染色体の額縁、牛乳の入った赤い三角パック×2など、「色へのこだわり」が随所で見られる。

●『歓びの毒牙』でも若干試みられていたが、犯人の「眼」がアップになるギミックが、本作からいよいよ本格化している。もともとこのギミックは前出のシオドマク監督の『らせん階段』からいただいたものだが、本作を経て、『4匹の蝿』『サスペリアPART2』とより様式化し、アルジェントならではの仕掛けとして定着していくことになる。

●研究所の所長と娘のカトリーヌ・スパークの関係性は、横溝正史の『三つ首塔』や『女王蜂』あたりをちょっと思わせて面白い。お父さんの所長がどことなくエドワード・G・ロビンソンを思わせる風貌なのが、似たようなテーマのデルマー・デイヴィス監督の『赤い家』(47)を思い出させる。あと、XYY染色体がどうとかっていうのも、横溝正史の『仮面舞踏会』みたいだよね。

●XYY染色体の持ち主に関して本作で紹介されている、攻撃性が強い、もしくは暴力的な犯罪行動を引き起こす可能性が高いとする学説は、一時は広く信じられていたものの、現在では誤りであったことがすでに証明されているとのこと。まあこういう遺伝子ネタの最新研究動向とかを安易に作品に盛り込むと、あとから学説が否定されて、映画が公開しにくくなることもあるので気を付けないとね。高木彬光の本格長編とか、精神疾患や遺伝的疾患を動機に設定したものが多くて、きょうび復刊したくても絶対できないような話ばっかり、みたいな(笑)。
でも、本作の犯人って、人を殺す必要まではないような動機で、次々と脅迫者や真相に気づいた人間を手に掛けていて、結果的に自身の犯罪性向と攻撃性をおのずから証明しちゃってるんだよなあ。

●『歓びの毒牙』でも同性愛者と思しき美術商が出てきたが、今回は本格的に同性愛者の集まる煌びやかなサロンが登場する。お小姓をめぐる三角関係でブラウン博士を密告しにくるオヤジになんとなく見覚えがあると思ったら、『歓びの毒牙』でモニカの旦那さんの美術商やってたウンベルト・ラオじゃないか(笑)。続く『4匹の蝿』の「事件を解決したことがない探偵」とか、『サスペリアPART2』のカルロとか、やけにゲイカルチャーから癖の強いキャラクターを引っ張ってくるんだよね、アルジェントって。

●『歓びの毒牙』での変人調査員にあたる面白キャラが、鍵開け職人の愉快な元泥棒。『4匹の蝿』のバド・スペンサーもそうだけど、アルジェントってこういう「ストリートの凄腕」みたいな犯罪者崩れに対して、温かい眼差しを向けることが多い。

●せっかく盲目の名探偵役を設定したのに、「音の証拠」をうまく導入できなかったのは痛恨のきわみ。あと、きわめて聡明なうえに写真記憶の持ち主っぽい(盲目の名探偵マックス・カラドスと従僕のパーキンソンみたい)姪っ子の美幼女のキャラクターも、うまく使い切れていないのが惜しい。探偵役の職業がクロスワードパズル作成とか、この設定ならいくらでも面白いミステリに仕上げられたと思うんだけどなあ。

●とくに終盤に出てくる納骨堂のシーンの演出は、あきらかにつながりが悪くて首をひねらざるを得ない。「実はアルノが真犯人なのでは?」とか思わせるのが目的だったのかもしれないが、まるでうまくいっていない。そのあとも、結局メモ紙を盗られたんだか盗られてないんだか、どうやって研究所にまでたどり着いたんだか、グダグダすぎてよくわからないことになっている。このへんをうまく整理できていないのは、共同脚本のダルダノ・サケッティのせいって部分もあると思う。

●ダルダノ・サケッティは、70~80年代のホラーおよびジャッロの歴史に深く爪痕を残した脚本家で、彼が参画すると「どうでもいいようなホラーが異様に難解で晦渋な内容になって、筋が全く理解できなくなる」ことで一部の好事家のあいだで名高い存在だ。とにかくシーンのつながりが曖昧で、登場人物の関係性がわかりにくく、ストーリー展開が意味不明なので、期せずしてある種「前衛映画」のようなテイストに仕上がる場合も多い。
それでもなぜかいろんな監督に重用され、マリオ・バーヴァの『血みどろの入り江』、ルチオ・フルチの『サンゲリア』『地獄の門』、ランベルト・バーヴァの『デモンズ』など、名だたる作品群に参画している。間違いなくたいした脚本家じゃないのに、異様にWikiが充実しているのも笑える。

●全体的に、殺害シーンの成熟度はいまだ「発展途上」の印象があるが、電車轢殺シーン(『サスペリアPART2』のカルロに通じる感覚)やカメラマンや博士の愛人の絞殺シーンでは、アルジェントらしいスタイリッシュな感覚がだいぶと増してきているのもたしか。ラストに待ち受けるエレベータシャフトでの残酷シーンは、入りこそ性急で間合いが悪いが、間違いなく『サスペリアPART2』のラストシーンにつながる外連味たっぷりの演出で、本作最大の見どころとなっている。

●音楽は前作に引き続き、エンニオ・モリコーネ。ただし本作では、あまり前にしゃしゃり出ない、クセの薄い音楽を提供している。

●今回のパンフレットはいろいろと有用な小ネタが満載だったが(さすがは矢澤先生監修!)、この映画がドイツではエドガー・ウォーレス原作として公開された話(ドイツって、たしかになぜか昔からエドガー・ウォーレスって盛んに読まれていて、50年代に復興運動があったりしてるんだよね)と、日本では『盲目ガンマン』と併映だった話(なんてわかってらっしゃる!!ww)はすげえ面白かった。

じゃい