忘れられた人々のレビュー・感想・評価
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忘れられた人々=私たちがみなくなった人々
戦争が忘れられない50年代の人々の現実。スラム街に生きる子どもは教育もまともに受けられず、親からの愛はもらえないし、そもそも親がいないことだってある。だから幼くして働きに出なくてはいけないし、家事労働もしなくてはいけない。不良になることだってある。けれど彼らは可哀想なだけではない。盲目の老人や足がない男を襲って、金銭や荷物を強奪することだってあるのだから。弱き者がさらに弱き者に酷い仕打ちを与える。単純に愛と信頼は存在しない。普遍的な悪の事象だ。
盲目の老人は目が見えないが、現実がよく見えているし、ペドロは〈事件〉を見たが見ないふりをしたから、幻想/夢が見える。母や所長、ハイボはペドロのことをちゃんと見ていない。だからペドロが悪を取り払い善良になる物語と思える。
しかし上述の図式はあまりにも単純だ。老人に悪人の要素はあるし、ペドロが悪から逃れる行動は、彼をどんどん悪に染めていく。母やハイボに更生/更正の余地はない。単純な図式に当てはめようとすればするほど、本作をちゃんと見ていないことを宣告されているようだ。
誰しもに悪の要素がある。陳腐な相対主義に還元されそうで危ういが、ゴミ山に打ち捨てられることで徹底される。まず残酷さをみよ、と。
スペインの巨匠、ルイス・ブニュエル監督のメキシコ時代の代表作
首都メキシコシティの片隅にたむろする不良少年たち。感化院を抜け出したリーダー格のハイボが合流して以来、彼らの素行はいっそう目に余るものに。
母からの愛を得られず鬱屈した日々を送る年少のペドロはハイボを兄のように慕うが、親しかったフリアンを彼に殺され、荒んだ生き方に疑問を懐き始める。
ハイボは一言でいえば手の付けられないワル。
相手が身障者だろうとお構いなしに暴行して金品を略奪、密告された仕返しにフリアンを襲って死なせても自分の保身しか頭になく、仲間の家族でも女とあらば手当たり次第に言い寄る。さらには弟分のペドロを陥れても平然としている正真正銘のサイコパス。
ブニュエルが本作を撮った1950年代、彼の母国はフランコ独裁政権の只中。
メキシコ革命で打倒されたディアス政権を懐かしむ盲目のカルメロ老人は当初は常識人のように振る舞うが、次第に陰湿な本性を表し、ハイボが警官に射殺されるのを見届け(といっても見えないんだけど)「生まれる前に殺せ!」と喚く。
彼に限らず、死んだフリアンを除けばほとんど善人が存在しない世界で連鎖的に転落していく若者たち。
一方で判事や感下院の校長ら公的立場の人たちは良識的。若者の更生に手を差し伸べようとするなど、社会矛盾の告発性は高くない。ブニュエルにはメキシコの体制が本国に比べ(少なくとも)まだましな国に見えたのだろう。
社会主義リアリズム映画と評される本作だが、むしろピカレスク・ムービー。
『アンダルシアの犬』(1929)のように不条理な作風で知られるブニュエル監督の作品に対し、一部サイトで寓意や隠喩を模索するべきではないと唱える向きもあるが、更生しようとしてハイボに殺された揚げ句、ゴミ溜めに棄てられたペドロの最期には、スペイン内戦で命を落とした共和国派の悲劇性が重なる。
タイトルの『忘れられた人々(Los Olvidados)』とは、一体誰を指しているのだろうか。
京都文化博物館の企画「メキシコ映画の大回顧」で今回拝見した際、本編以外にもペドロの更生を予感させる別バージョンのエンディングが併せて上映。感想は人それぞれだが、容赦のない本編のバッドエンドの方が映画の完成度では優るように自分は思う。
ハイボを演じたエステラ・インダはなかなかの美少年。俳優としての他の実績は不明だが、堂々と悪党を演じ切った彼の存在感にも注目。
因果応報的に死んでいくハイボへも憐憫を感じさせるラストの余韻に一役買っている。
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