「有色人種差別の真っ只中だよ(追加)」夜の大捜査線 Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
有色人種差別の真っ只中だよ(追加)
厳しい人種差別が根強く残る1960年代のアメリカ南部を舞台に』と解説にあるが、人種差別が根強く残るという言い方はやめてほしい。キング牧師が殺され、その数日後、ジョンソン大統領が公民権法を議会で通した(1964年)としても、南北差があり有色人差別の中、人種差別が根強く残るという言い方は疑問だ。特にこの映画の舞台となる、南部のミシシッピ州のスパルタという田舎町。
そこでメンフィス行きの電車の乗り換えを待つミスターティッブスは事情聴取なしで殺人の疑いをかけられる。黒人だということだけで。
冗談がおおおくて、大笑い!! 言葉のやりとりだけでなく、 今じゃ使えない言葉や、人々の差別偏見の態度にも見せ場がたくさんある映画。しかし、1966年撮影だと聞く。どこで撮影したかとかシドニーポアティエは南部の綿プランテーションに行ったのか?どこに泊まったのかなど、芸能ニュースでロケ場所を探すともっと、実感が沸くと思う。
それらより、好きなシーンを振り返ってみる。
スパルタの場末の食堂で、黒人に飲み物を出さないと給仕(ラルフ)はミスターティッブスにはっきりいう。細かくてつまらないシーンかもしれないがよくみていると(言いたくないが)、スパルタでのんびり構えた田舎で働く白人(全部ではない)の心の動きと北の大都市フィラデルフィアからで週に162.39ドル稼ぐという殺人課のトップ警部との温度差がよくわかる。映画『グリーンブック』(1962年の現状)でもご存知のように、北部では白人、有色人種は一緒に食事ができるが、ミシシッピー州にあるこの食堂では、ジムクロ-法で、給仕、ラルフ、が拒否する。二人の警部は現状を知っているから、ミスターティッブスに、何か欲しいなら持ってくると。しかし、ミスターティッブスは中に入るという。ミスターティッブス(シドニーポアティエ)は差別を恐れずプロ意識の高い一流の警部だが、それ以上に、黒人というだけで尊敬されず黒人としてか受け入れられない狭い世界にいる。これじゃあ、事件の解決にも時間を要するだろう。
ここで夫を殺された婦人、コーバートさんだけが、誰が夫を殺したかを知りたいから、この中で誰がこの事件を解決できるかを知っている。。一番プロの仕事を任せられる人を知ってる。ミスターティッブスが彼女をいたわって座らせるシーンでもよくわかる。一切抵抗や軽蔑の態度を取らない婦人。夫も公平な雇用の場を考えていたから殺されたのであって。この夫婦は同じ姿勢だと思う。素晴らしい似た者夫婦だ。 (教養がある人の役。)
もう一人は利き手が違うことが無実の証拠に高級スーツに身を固めているミスターティッブスから味方だよと言われた男、ハービー。『なんで白人の洋服を着ているのか』と不思議そうに聞いたが、刑事手帳を見せるとミスターティッブスをすぐ信じた。そしてミスターティッブスを黒人じゃなく刑事としてみて、協力的な態度を示して獄中で捜査に協力した。(教養がない人の役)
この映画の圧巻はそれそれ違うだろうが、ミスターティッブスが主犯エディコットを殴り返すところかもしれない。それより、私はミスターティッブスが殺人をあつかったことがないスパルタ警察所長ビル・ゲレスビーの自宅を訪問した時の会話の方が重くて、好きだ。所長は一人暮らしで、結婚もせず、子供もいない一人暮らしの設定で、人を自宅に招待したこともない。はっきりいて、誰も来ないし、親密になった相手もいないと。これを『自分の秘密を話す』よとミスターティッブスに心の中を見せる。しかし、ここでミスターティッブスは『所長より孤独じゃないよ』と言った途端、所長は『利口ぶるなよ、黒人よ(Black Boy軽蔑差別用語), 同情はいらないよ』と。明らかに、黒人から同情をもらうなんて自分は落ちぶれちゃいないよ、何様だ!!というような意味だと思う。トップの黒人の刑事、実力があって賢いのは良くわかるけど、ビル・ゲレスビーは人間として同じ位置にたって、同じ寂しい気持ちを共有できないんだね。。。比較として考えるがら、差別意識が頭を持ち上げる。。。所長の心の差別意識は無くなっていないんだね。。。最後に、ミスターティッブスを電車に乗せるシーンだが、所長はミスターティッブスのカバンを持ち、『ありがとう』とミスターティッブスに初めていう。そして、気をつけてねと。。。。。。。この映画の先、南部の田舎で所長の差別意識が変わり、どう彼の将来に影響するか想像する。
追加: 1966年にどうこの映画を撮影したか気になっていた。ハリウッドレポーター(4/5/2017)というウェブサイトに監督のこの映画の回顧録があるのを見つけたから意訳する。
シドニーは早い段階から、どこで撮影するかと聞いていたと。監督は綿摘みの畑のシーンはすでに用意していると。 シドニーはメイソン・ディクソン線の南に行くつもりはないと。監督は理由を聞いたらシドニーはジョージア州でハリーベラフォンテと一緒に、車が追いかけられ、脅迫され嫌な経験をしたと。約束を破りたくなかったので、ロケ地を探し始めたと。そして、テネシー州ダイアーズバーグに場所を見つけたと。綿のプランテーションがあり、エンディコット[ラリーゲイツ]が住んでいる牧場も。そしてシドニーに許可を取ったと。シドニーは理解してくれた。監督はスタッフと一緒にシドニーを守ると約束した。ホリデーインはアフリカ系アメリカ人を受け入れた唯一のホテルだったので、そこに皆で滞在したと。
1966年に撮影していたので、状況は、キング牧師がはセルマで行進をしたばかりだったと。
その後、アイダホ州で監督の子供も、たまたまボビーケネディの子供も足を骨折し、この映画の話をする機会があったと。ボビーは『これは非常に重要な映画かもしれません、ノーマン。政治、芸術、そして人生そのものにおいて、タイミングがすべてです。」と。映画が公開された後、ニューヨーク映画批評家協会賞、ロバート・ケネディが賞をくれたと。
やっと理解した当時の撮影の苦労。