MORE モアのレビュー・感想・評価
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小悪魔的ミムジー・ファーマーが美しかった
ドイツ人のステファンはヒッチハイクでパリにやって来た。ある夜、パーティで見かけたエステルに一目ぼれし、彼女に誘われるがままイビサ島にやって来た。海の近くの自然の中、自由で麻薬とセックス三昧の幸せな日々を過ごす2人だったが、エステルが盗んできたヘロインをステファンも使ううちにヘロイン中毒になり死んでしまう、という話。
ステファンは可哀想じゃなく、幸せに死んでいったように感じた。介護が必要になり、自分で食べれなくなってまで長く生きているより、太く短い快楽の人生も悪くはないかも。
エステル役のミムジー・ファーマーは本作でも美しかった。
これが男殺しのマルガリータってやつかw……ミムジー・ファーマーの魅力横溢のドラッグ・ムーヴィー
シネマカリテの「ミムジー・ファーマー特集」にて視聴。
僕のなかでは、ミムジー・ファーマーといえば『4匹の蠅』(1971)と『炎のいけにえ』(1975)で主演してたジャッロ・クイーンって印象しかなかったけど、世の中的にはこちらなのね。
というか、これと『渚の果てにこの愛を』(1970)で盛名を馳せた結果として、70年代のジャッロ主演乱れうちが始まったということか。
パンフを見たら、ミムジー自身が当時を述懐して曰く、本作が大反響を得たのちオファーが次々と舞い込むようになったのだが、「驚いたことに、それほどいい作品にも、それほどいい監督にも、それほどいい役にも巡り合いませんでした」ですって(笑)。アルジェントやフルチの立場まるでねーな、おい!www
で、こちらはバーベット・シュローダー監督のデビュー作。
実は、この監督の「第二作」を、僕は去年の誕生日あたりに、新宿Kcinemaの「奇想天外映画祭」で観ている。
ちょうど一年経って、また誕生日の翌日にシュローダーの映画を観ているのは、不思議な巡りあわせとしかいいようがない。
その第二作『ラ・ヴァレ』は、ピンク・フロイドが音楽担当で、ネストール・アルメンドロスがカメラマンという座組も同じ、前作につづく「ドラッグ/ヒッピー映画」だ。
パブア・ニューギニアで、若く美しいセレブの外交官夫人がヒッピーに感化されて、一緒に「ザナドゥ」を求めて島の奥地に着の身着のままで向かった結果、うっかり高山病と気温の低下でもろとも全滅するという、ちょっと正気を疑うようなノータリンジャンキー版「八甲田山死の行軍」映画だった。
本作『MORE』は、「ドラッグ/ヒッピー」「楽園の島」「自然との交歓」といった要素は第二作と通底するが、こちらで巻き込まれるのは男のほうで、ヒロインのほうが巻き込む側である。
大筋としては、葉っぱをやってるうちはいいが、ヘロインに手を出したら人生終わるよ、というヒッピー特有の線引きと道徳観に貫かれた、ドラッグ版『酒とバラの日々』みたいな内容。
ヒロインのエステルが、薄幸そうだったり、野性的だったり、ピュアそうだったりするわりに、物語としてはファム・ファタルの機能を果たす、という部分に新しさがある。
正直な感想をいえば、青春映画としてはややかったるい感じ。
主人公のステファンが、とにかくずうずうくて押し付けがましいろくでなしのDV野郎で、ぜんぜん共感できない。よって、どうしても醒めた客観的視点でしか鑑賞できない。エステルのほうも、さんざん振り回したうえにトンズラとは、なかなかフトいアマである。
個人的には、ドラッグをやる人間に対して敵意も偏見もない代わりに、ドラッグに憧れる気持ちややりたい気持ちも皆無なので、バカがバカやって身を持ち崩して本当にこいつらバカだろう、くらいの感想しかない。
『ラ・ヴァレ』の主人公たちには、まだヒッピーとしての理想があったし、夢があった。それは非現実的で死と隣り合わせのものだったけれど、少なくとも彼らには、運動に敗れてマージナルへと行きつき、やがて滅びゆく者特有の輝きがあった。
『MORE』の二人にはそれがない。ただひたすら無軌道に振る舞い、クスリに逃避し、楽園の島で原始的な生活を送っているだけの、頭の弱いアダムとイヴだ。命の危険と隣り合わせといっても、マフィアからヘロイン盗んだんだから、まあ自業自得だよねって話。彼らには、変えたい何かもなければ、渇望も理想も焦燥もない。
それもそれでひとつのヒッピーの生き方なのだろうが、そういう人間に僕は肩入れできないので、ドラマとしては、いささか乗り切れなかった印象は否めない。
ただ、個々のシーンとしては、はっとさせられるようなショットがたくさんあって、さすがはネストール・アルメンドロスだと思わされたし、ああ、これって要は「フランスに飛び火したアメリカン・ニューシネマなんだな」と得心がいった。
冒頭からして、画面中央にピタリと太陽を据えて、直視しつづけるような映像がまず素晴らしい。
なんだか、目をそむけたくなるような(実際にはこんなふうに太陽は見られないから)気分に襲われながらも、危ない何かに魅入られ、虜にされるような不思議な感覚。
「太陽」は、ステファンが求めたヒッピー的な「自由」と「解放」の中核に他ならない。
ラストで、野垂れ死んだステファンを見下ろすように、太陽はこうこうと照り付ける。
監督とカメラマンは、明らかに彼を、太陽に近づかんとして蝋の羽を溶かし地に堕ちたイカロスと重ね合わせている。
エステルの登場シーンも鮮烈だ。
あのマルガリータをつくる彼女の、うごめく舌! 舌! 舌!
主人公が一撃で陥落する瞬間を、これだけ電撃的に表現できた映画もそうそうないだろう。
あのグラスの縁を舐め回す舌は、エステルというキャラの無防備性、少女性、肉体性、エロティシズム、淫靡さのすべてを担って、ステファン(と観客)の心を根こそぎ絡めとってしまう。
ヘロイン中毒になって海辺で前後不覚になっているエステルを、ステファンが担ぎ上げて運ぶシーンの危なっかしさも妙に印象に残る。本当に気を喪っている人間をお姫様だっこすると、こうなるんだなと思わされる、やけにリアルでインパクトのある描写だ。
同時に、エステルという女性の蠱惑的で危うい無防備さ、目を放すと自壊しかねないヤバさ、コントロールしようとしても手から零れ落ちていく身勝手さを「視覚化」した表現だともいえる。
ラリッたステファンとエステルが風車を攻撃するシーンは、当然ながら『ドン・キホーテ』を元ネタとしている。ふたりにドン・キホーテのような高邁な騎士道精神はないにしても、ふたりが「自由」という幻想を追求するなかで、何か大きなものに挑んで、敗れて、自滅してゆく様子をなぞらえたシーンとしては、なかなかうまくいっていると思う。
最後にミムジー・ファーマーの魅力について。
パンフでは女性評論家の方が、彼女の眼差しについて言及している。曰く、「瞳孔が開いているような、どこかあらぬ方向の一点を見据えているような感じがする目だ。まなざしに狂気が宿っているようで怖いのである」。たしかにそういう面もあるのだろう。
だが、男としての僕からすると、若干的外れなような気もする。
ミムジーの目は、いじめられっ子の目だ。
きつくて、意志的な眼差しでありながら、どこか嗜虐心をそそる。漠然とした「怯え」が漂う。
なんだか「力で屈服させてほしがっている」とゴミ男の誤解を誘うような目だ。
これが男を惑わせるのだ。
『MORE』で成功を収めたミムジーの元に、大量のオファーを送ってきた監督たちの大半が、ジャッロやホラーの監督だったのも当然といえば当然だろう。ミムジーは、「ヒロインをいじめたい」彼らの琴線に触れたのである。
それと、この人の目鼻立ちって、けっこうシルヴィア・クリステルに似ていると思う。
要するに、エロい。
ジェーン・バーキンの身体に、蠱惑的なエロい顔のパーツがはめ込んである感じ。
このアンバランスが、やけにそそるのだ。
そういえば、本作にはソフトコアまがいの同性愛シーンや、大自然を背景としたセックスシーンなどがふんだんに出てくるが、これって、次作『ラ・ヴァレ』における「外交官夫人がヒッピーに感化される」というそっくりの流れも含めて、74年公開の『エマニエル夫人』に先鞭をつけたケースと言えそうな気もする。まあだからどうだってわけでもないのだが(笑)。
解放〜破滅〜真の解放
1969年作品。
日本公開50周年記念のリバイバル上映。
地中海の島でセックスとドラッグと
ピンク・フロイド。
主人公の男性は最終的にオーバードーズで命を落としますが彼は本当に不幸だったのか?
20年以上デフレが続く日本。
先進国で唯一賃金が下がり続ける日本。
10代〜30代の死因の一位が自殺の日本。
人生100年?想像もしたくない。
セックスや食事を満喫出来るうちに死にたい。
明るい未来が見えづらいこの場所で
映画や音楽は大切な解毒剤。
自由を謳歌し破滅するステファンとエステル。
自分にとって二人は
ある意味とても羨ましく映りました。
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