「戦災孤児に対する世間の差別と里親の情愛を寓話仕立てで描く、社会派ロージーのデビュー作」緑色の髪の少年 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
戦災孤児に対する世間の差別と里親の情愛を寓話仕立てで描く、社会派ロージーのデビュー作
予備知識ゼロでシネマヴェーラで鑑賞した、ジョセフ・ロージーの監督デビュー作。
赤狩りでロージーがハリウッドを脱出する前に撮った数本のうちの一本である。
まさか期せずして、このウクライナ侵攻のさなかに、「戦災孤児」を寓話的に扱った「反戦映画」を観ることになるとは。
しかも、このあと続けて観たのが、オーソン・ウェルズの『謎のストレンジャー』。こちらは戦争犯罪人の話である。
どちらの映画にも、シーンの端々、セリフのそこかしこに、「今」ウクライナで起きている恐ろしい事態と直接繋がる、どきっとするような瞬間があって、ちょっと驚いた。
タイトルだけで前者はSF、後者はノワールと勝手に決めつけていたので、ここまでストレートに「反戦」と「差別」を描いた映画の二本立てになっているとは思っていなかったのだ。
まあ、こういう「偶然」は、思いのほかよく起きるものだ。いわゆるシンクロニシティっていうか、コインシデンスっていうか。シネマヴェーラのプログラム担当者は、ウクライナ侵攻がウィスコンシン・スクール特集の時期とぶつかって、自らのある種「予見」的な感覚に驚いていると思うが、きっとそれは時代が「呼び込んだ」ものでもあるのだろう。
それにしても、不思議な映画だ。
SFというよりは、寓話。あるいは「たとえ話」というべきか。
「妻が卵を産んだ」とか「犬の言葉がわかるようになった」とか、そういうたぐいのファンタジーが現実要素の中にひとつだけ加味され、そこに様々な「寓意」がかぶせられてゆくタイプの物語である。
お話は、マルコメくんにした少年が駅で確保されるところから始まる。
警察の聴取には黙秘を貫くが、警官が連れて来た児童心理学者のロバート・ライアンには心を開き、「自分がなぜ丸坊主で家出したのか」を語って聞かせる。
「とにかく長い話なんだ。そもそも僕が生まれたのは……」
「そこからなのか? そいつはたしかに長いな」
ふたりのやりとりは実にほほえましい。まあ、タイトルが「緑色の髪の少年」なわけだから、当然剃髪しているのは髪が緑色だからだというのは想像がつくのだが、語られる内容はかなり素っ頓狂だ。
少年ピーターは言う。幼い頃から親がおらず、「親戚」にたらい回しにされてきたこと、血のつながらない「グランパ」に引き取られたこと、学校に通い出して友達もできたこと。
ある日、両親がすでに亡くなっていて、自分が「戦災孤児」であると知ったこと。翌朝、起きてシャワーを浴びたらなぜかいきなり「髪が緑色になっていたこと」。
突如髪色が変化してしまった少年は、村の大人からは白い目を向けられ、子供たちからは攻撃的な仕打ちを受けるようになる。最初は守ってくれていたグランパも、やがて「髪を切る」ことを提案してきて・・・・・・。
寓意は、一応のところ分かりやすい。
作中で、戦災孤児たちの幻影が森の中で登場し、ピーターに向かって「緑の髪は戦災孤児の証だ」「平和の語り部となれ」とはっきり問いかけるからだ。
ただ、なんで戦災孤児だと髪色が変わるのか。しかもなぜ緑なのか。
なぜ何千万人といるであろう戦災孤児のうち、ピーターだけが髪が緑になったのか。
このあたりがよくわからないために、寓意としては「そうだというのなら、そうなんだろうな」といった感じで、いまひとつしっくりこない。
むしろ、これが「肌色の違い」や「人種差別」の組み換え/言い換え表現だというのなら、話は分かりやすいのだ。同じ「差別」をテーマに寓話的映画を撮るにしても、「一夜にして黒人に」とするよりはネタとしてよほど生々しくないし、話を普遍化、客体化しやすいからだ。白眼視する周囲の町民や迫害に近い攻撃性を示す子供たちの反応も、たとえばこれが「ユダヤ人」だとか「黒人」のたとえだとして観れば、頭にすっと入ってくる。
だが戦災孤児の証が緑の髪って言われても、「戦災孤児だからいじめられる話」と「髪色が違うからいじめられる話」をパラレルに受け止めるのはちょっと難しいし、そもそも戦災孤児だからという理由でそこまで差別されるものなのかってのも、もうひとつピンとこない(少なくとも「戦災孤児」は「髪色」や「人種」とちがって、「伝染の恐怖」とはつながりが薄いだろう)。
このへん、原作短編を脚色するさい、自分の思い入れのある「反戦」の部分に話を寄せ過ぎて、逆にバランスを逸してしまっているのかもしれない。
それでも、「他と変わったところのある個人」を怖れ、怪しみ、迫害する人間の性と、無垢な子供たちの間でこそ暴走するマイノリティに対する暴力性は、作中で非常に端的に描かれているし、「変わっていることを自分から声高にアピールする」活動家に対して大衆が感じる生来的な嫌悪感も、目を背けることなく活写している。
愛情豊かで善良な人たちもまた、その「モブ」の心理に少なからず影響を受けるということ、それでも、相手のあまりに悲惨な境遇に直面したときには、より融和的な方向へと舵を切る勇気も人の中にまた備わっていることも、きちんと描かれている。
この「異物を排除しようとする民衆心理」と「迫害される弱者・少数者に対する悪意と善意のせめぎ合い」というテーマは、おそらく次作の『暴力の街』でも、そのまま引き継がれているのだろう。
ただ、主人公が「子供」だというのは、本作の重要なポイントだと思う。
寓話としての枠組みを用意することで、本作は「子供を主人公とする気づきと成長の物語」でありつつも、同時に「子供に接することで成長する大人たちの物語」としても成立しているからだ。
作中では、大人と子供が横並びで座る構図が多用され、常に両者は対比され、お互いの行為に対する反応を示し合う。
面白いのは、たとえば冒頭でピーターがロバート・ライアン演じる児童心理学者に心を開き始めると、少年の動きは学者の動きとシンクロし、相手の姿勢やしぐさを模倣するようになるのだ。
これはまさに、後年デズモンド・モリスが『マン・ウォッチング』などで巷間に知らしめた現象であり、ロージーがこの共感による同調現象に自ら「気づいて」演出に取り入れていたということだ。
(ちなみに、この映画では、小道具で相手の職業をそれとなく示したり、ロウソクの本数で少年の年齢をさりげなく示したりと、セリフ以外で状況を説明する粋な演出が多数見受けられる。)
こうやって、子供を主人公に設定しておくと、身に降りかかった苦難にイノセントに立ち向かう様が共感を呼ぶし、子役次第でいくらでも観客を味方につけられる。声高に主張したり、こだわりの強い行動に固執しても、「でもまあ子供だから」で受け流せる。
同時に、回りの大人たちも、「子供だから」こそ少年の純粋な涙に真剣に打たれ、改心する余地が生ずるわけだ。
ある意味、「髪が緑になる」という、正直実害もなにもない「どうでもいい事象」と、「子供」という要素を組み合わせることで、本来なら「悲劇」で終わるしかない「異物」と「差別」の物語を、なんとかハッピーエンドへと導いているともいえるだろう。
「髪を切る」という行為は、相手の思想や信念を根こそぎ「刈り取る」行為であると同時に、相手の尊厳を踏みにじり、へし折り、奪い取る代替行為でもある。
僕は、理髪店で断髪式に及んで、さめざめと涙を流すピーターを観ながら、昨年観て真の衝撃を受けたカール・Th・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』を想起していた。
40年代にはすでに幻のフィルムであったろうから、ジョセフ・ロージーはあの映画を観ていないだろうと思われるが、「髪切り」のもつ含意は両作に通底しているのではないか。
とにかく、子役のディーン・ストックウェルが達者だ。
当時、他の映画にも複数主演していた子役スターだったらしい。
基本ふてくされたような表情の多い映画だが、一瞬こぼれる笑顔もとても良い。
この子のおかげで、多少行ったり来たりしてとりとめのない感じの映画を、全幅の共感をもって観ることができた気がする。
グランパ役のパット・オブライエンの慈愛と明るさも、ともすれば陰気になりかねない映画を救っている。ちなみにどういう経緯で里親になったのかとか、その辺の経緯の説明はいっさい出てこないのだが、現役の有名な芸人(ピーターは「有名な役者」と言ってたけど、マジック&歌のボードビリアンだろうね)で、血のつながらない子供を全幅の愛情で育てているという老人の不思議なキャラクターは、この映画の寓話的な味わいをいや増しに高めている。