「真昼の孤独な決闘」真昼の決闘 kazzさんの映画レビュー(感想・評価)
真昼の孤独な決闘
午前十時の映画祭11にて。
やはり、この映画もグレース・ケリーの美しさが際立つ。
グレース・ケリーは本作が映画出演2本目にして初のヒロイン役で、当時22〜23歳。主演のゲーリー・クーパーは51歳だった。ゲーリー・クーパーが扮する保安官ウィル・ケインは設定上も若くはないようなので、グレース・ケリーが演じるエイミーは自分の倍以上年長の男に嫁ぐというわけだ。
主人公のウィルは、結婚と同時に保安官を辞めて町を出ることになっていたようだ。
ウィルと因縁があるならず者が町にやって来ることが分かって、町の人たちはウィルと共闘するか突き放すかで二分する。町長は、ウィルが町のために尽くした保安官だと説明しながらも、町に向かっている悪党はウィルに個人的な恨みを晴らしたいだけだ、ウィルはもう保安官ではないと言い、町の人々はその言葉に無言で同意する。
だがしかし、ウィルは保安官バッヂを外さず一人銃を持って悪党たちに立ち向かうのだった。
この物語の恐ろしいところは、悪党一味の4人が町にやってくるとウィル以外に住民がいないゴーストタウンであるかのように町は静まり返り、一旦は共に戦おうとしていた人たちも含めて誰一人として救援に現れないところだ。多数決の結論を絶対とする民主主義へのアンチテーゼだとも言われている。
新妻エイミーが、悪党と闘うことを選んだウィルを置いて列車で一人町を出ようとするが、これは彼女がクエーカー教徒であることがポイントとなる。
クエーカー教はいかなる者とも闘わない平和主義、友愛主義が教えの宗派だから、闘いを選んだウィルとは決裂しなければならなかった。
だから、そのエイミーが悪党の一人を撃ち殺してウィルを助ける場面には重い意味がある。
この映画は、悪党のリーダーが列車で町にやってくる設定に工夫がある。
弟たち3人の仲間がこの町の駅で待っていることで、町に来ることが目的だと分かる。
列車の到着時刻が正午であることが分かっているから、正午までの時間をほぼリアルタイム進行で描くことでサスペンスを形成している。
これによって、〝ハイヌーン〟が刻々と近づく緊迫感が生まれている。
孤独な闘いを終え、町の人々に失望したように保安官バッヂを地面に投げ捨ててエイミーと共に馬車で町を出るウィルだが、彼があえて孤独な戦いに挑んだのはなぜだろうか。
悪党が町に向かっていると知らせが入り、急いで町を出るように町長は助言している。しかし、一旦町を出ようとしてウィルは舞い戻る。保安官を辞めた自分は銃を持っていない。自分を恨む悪党が釈放されたとなると、自分を守るために保安官バッヂと銃が必要だ。だから町に戻って保安官に復職しようとしたのではないか。そう考えると、もう保安官ではないのだから町を出ろという町長の意見は、政治家として正しかったようにも思える。
自分がいないと知っても、町にやってきた悪党一味がおとなしく帰っていくはずがない。後任の保安官はまだ着任していないのだから、自分が町を守らねばならないと考えたのだろうか。そうだとすると、悪党一味がウィルに恨みを持っているとはいえ、仮にウィルがいなくても、あるいはウィルに恨みを晴らしたとしても、その後悪党たちが町で何をするかという危機意識が町の人たちには欠如していたと言える。
恐らく後者なのだろうが、ウィルの言動には判りづらい部分もあって、従来の西部劇で描かれた完全正義の保安官とは趣が異なっている。
町の人たちも、馬車で去っていく夫妻をただ見つめるのみで、ウィルへの感謝も謝罪もない。
町を救ったであろう元保安官は孤独に戦い、虚無感の中去っていくのだ…
部署が違うので直接助けてあげられない若手の社員がいます。
今、あるプロジェクトでひとり奮闘しているのですが、直属上司も、それなりに関与できる立場の人たちも誰もサポートしてくれません😤
そんな時、外野から声をかけることしかできない私は、この映画を教えてあげました。
村上春樹さんも、本人は何もしていないのに、文壇のほうが勝手に冷やかな距離感をとっていた頃、好きな映画だったとどこかで読んだ記憶があります。