「並列、混線、そして現実を超えた現実へ」パンと植木鉢 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
並列、混線、そして現実を超えた現実へ
アッバス・キアロスタミ『クローズ・アップ』やジャファール・パナヒ『人生タクシー』等と同様、映画の中で映画を撮ることをテーマにしたメタ映画。
メタ、と聞くとなんだか胡散臭い気もするが、イラン映画におけるそれは、観客をスノッブに裏切ったり作家的内面をこれみよがしにひけらかしたりするための飛び道具ではない。そうではなく、別個のリアリティーを並列的に立ち上げること。そのためのメタ演出。映像という同一線上に並べられたいくつもの異なるリアリティーは、互いに互いを侵食し合い、ついにはどっちがどっちだか判別がつかなくなる。単純な二項対立の図式や一義的なテーゼはことごとく解体される。そしてそこにただのリアリズム(自然主義とかネオレアリズモとか)ではリーチしえない、言ってしまえば現実を超えた現実、みたいなものが顕現する。
現実を超えた現実、なんていかにも韜晦的な言い方だが、今はそうとしか言いようがない。それでいて「さあオレは今からすごいことをやるぞ!」みたいな力み方はせず、あくまで素朴なコメディドラマの語彙と文法だけで一本撮り上げてしまうものだからイラン映画はすごい。
本作ではマフマルバフが17歳の頃にナイフで傷害した警察官(事件も人物もすべて本物)とともに映画を撮ることになる。その内容は、当該の傷害事件を街の若者に再演させるというもの。つまり本作には少なくとも3つの位相がある。一つは『パンと植木鉢』という劇映画の位相、もう一つはマフマルバフによる警察官の傷害という現実の位相、最後は3人の若者が傷害事件を再演するという映画内映画の位相。そのそれぞれの位相上にそれぞれのリアリティーが蓄積し、互いに交じり合い、映画は劇ともドキュメンタリーとも再現ドラマともつかない夢幻的様相を呈する。
特に序盤、マフマルバフが若き日の自分役の青年と一緒に傷害事件の共謀者だった女の自宅を訪ねるシーンは白眉だ。マフマルバフが「君の娘を君役として出演させたい」とゴネている間、女の娘がお茶の入った盆を青年のところに持っていく。「飲む?」「いやいらない」という何気ないやりとりが何度か続いた次の瞬間、二人は突然シリアスな表情になって警官襲撃の計画を確認し合う。二人が織り成す劇映画『パンと植木鉢』のリアリティーに、ふと在りし日のマフマルバフと女が奏でた現実のリアリティーがラジオの電波干渉のように混ざり込み、そして消えていったのだ。
結局この娘は青年の相手役にはならないのだが、それにしてもすごいシーンだった。虚を突かれたというか、お前のいる現実だけが現実じゃねーんだぞ!安心しきって座ってんじゃねーぞ!と頬を引っ叩かれたかのような心境だった。
細部ばかりに目を向けたが、全体的に脚本が凝っているのでメタとかそういうことを度外視しても楽しめる。なんとなく展開されたかと思われていたシーンが中盤から終盤にかけて一挙に繋がっていくカタルシスも相当なものだ。随所で静かに炸裂するシュールなギャグパートも愛おしい。
概してものすごく上質なイラン映画だった。日本に入ってくるイラン映画は往々にして傑作揃いなんだけども、その中でもとりわけ面白かった。