「ターナーはチャスと入れ替わったのか?」パフォーマンス neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
ターナーはチャスと入れ替わったのか?
本作は1968年という時代そのものの混沌と変容を、ひとつの物語に凝縮したような非常に特異な作品でした。
物語の軸は、暴力的で男らしさを誇示するギャング構成員チャスと、かつてはポップカルチャーの頂点にいたものの創作が止まり、家に閉じこもってしまったアーティスト、ターナー(ミック・ジャガー)の邂逅です。チャスは自分のミスを隠すために敵を殺し、逃亡中にターナーの家へ転がり込みます。そこにはターナーと二人の女性が暮らす、性別や役割の境界が曖昧な奇妙な共同生活が存在していました。
ターナーの恋人ファーバーは、彼のことをかつて“天使や悪魔と踊るような特別な存在”だと思っていたものの、実際には「ただの美しい獣」に過ぎなかったと語ります。彼は両性的で、退廃と解放を同時に帯びた魅力を放ち、良性偶有的な天使性と、神性を失った堕天使性の両方をまとった人物として描かれています。
一方、チャスは序盤では暴力によって世界を支配しようとする“旧イギリス的男性性”の象徴です。しかしターナーの家での共同生活によって、その内側に潜む柔らかさや抑圧してきた欲望が徐々に露わになっていきます。マジックマッシュルームのサイケデリック体験を経て、チャスは“男らしさの鎧”を手放し、ターナーの世界へと引き寄せられていきます。
本作を通じて最も重要なモチーフが“鏡”です。鏡の中で顔が入れ替わり、男女の境界が曖昧になり、誰が誰かわからなくなるショットが頻出します。これは、他者を通じて自分が書き換えられていく様を視覚化したものであり、アイデンティティの溶解と人格の融合を象徴しています。チャスとターナーの顔が重なり鏡像的に同一化していく場面は、互いの内部へ侵入していくような不穏さと美しさを湛えていました。
本作の技法面でも、チャスの精神変容と世界観の対比が鮮やかに描かれていました。序盤のチャスの暴力的な日常は、極端に細かいカットの連続によって断片化され、彼の“硬さ”や“歪み”がそのまま編集のリズムになっています。画面の奥行きを強調したディープスペースの構図も多用され、彼の内側に潜む複数の衝動や緊張を可視化しているようでした。さらに前半では、金属が擦れるような不協和音や機械的なノイズが絶えず鳴り、過剰な男性性と暴力性に満ちたチャスの精神を“音そのもの”で表現しています。一方、ターナーの家に入るとそのノイズは徐々に薄れ、音は柔らかく、エコーを帯びたサイケデリックな空気へと変わっていきます。カットや音響が“硬さから溶解へ”と移行することで、チャスの人格の変容が視覚と聴覚の双方から描き出されていました。
また本作の映像処理には、後のポップカルチャーへの広い影響を感じました。細かく断ち切られるカットや、現実と主観が入り混じるサイケデリックな編集は、後年のミュージックビデオやアート系PV、さらには日本の漫画・アニメが発展させていく“断片的な視覚言語”にも通じています。特に、内面世界をそのまま画面に重ねていくような表現は、実写映画の枠を超えて「コマ割り」や「視覚的比喩」のようなマンガ的感覚に近く、当時としてはかなり先鋭的だったと思います。技法そのものが後の映像文化に与えた影響という意味でも、ここには1968年という時代のエネルギーが刻まれているように感じました。
最終的にチャスはターナーを撃ちますが、その行為は“否定”ではなく“取り込み”として表現されます。ターナーは肉体的には死んでも、その精神や価値観はチャスの中へと流れ込みます。終盤、車に乗って去っていく人物の顔がターナーへと変化するラストショットは、単なる入れ替わりではなく、チャスとターナーの“融合”を示しているようでした。暴力的な男であったチャスの主体は崩壊し、ターナー的な流動性・退廃・自由が内面化された“第三の存在”が生まれたように感じました。
ターナーの家は、性別や役割が溶けあうリベラルで共同体的な空間です。これは当時のヒッピー文化やカウンターカルチャーの象徴であり、旧来の階級社会・男社会・暴力的権威の崩壊を暗示しています。大英帝国の終焉、イギリス社会の弱体化、そして若者文化の“勝利と退廃”が同時に描かれているように思いました。
チャス(旧いイギリス)が崩壊し、ターナー(新しいイギリス)がその内部へ侵入し、二人が溶け合った結果として“現代イギリス”が生まれた――そう読める映画でした。男らしさという神話の死、若者文化の退廃と自由、アイデンティティの溶解。その全てが鏡のように反射し合い、混ざり合う不思議な作品でした。
鑑賞方法: U-NEXT (HD画質)
評価: 88点
