ドイツ零年のレビュー・感想・評価
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ベルリンを舞台に少年の悲劇を描いたネオレアリズモの厳しさ
イタリアン・ネオレアリズモの先駆作「無防備都市」と「戦火のかなた」に続くロベルト・ロッセリーニ監督の第二次世界大戦後の荒廃した社会を激写した衝撃作。公開された1948年には、デ・シーカ監督の「自転車泥棒」とヴィスコンティ監督の「揺れる大地」があります。しかし、この作品の一番の特徴は、イタリア本国を離れて、同じ敗戦国でもレジスタンス運動が無かったドイツのベルリンを舞台にした、ある少年の悲劇を冷徹に記録していることです。敗戦のショックと困窮を極める一般の人々の生活描写には、敗戦7年後の本邦公開でも、切実な共感を得たのではないかと想像できます。
まず戦後世代から観て興味深いのは、1947年に撮影された廃墟化したベルリンの街の様子です。市電の交通機関は機能しているようでも、爆撃や市街戦で破壊された建物の損傷は酷いままで、尚且つその中で生活していることに驚きました。戦後2年のこの実状は、ベルリン陥落の悲惨さを伝えると共に、12歳の主人公エドムント・ケーラーが学校に通わず就労許可証なしでお金を稼がなくてはならない境遇にいることに居た堪れなく、観ていてとても辛い鑑賞でした。エドムント少年には、家にも外にも居場所がありません。病弱の父は病床に伏したままで、僅かな年金とエドムントのアルバイトが家族の収入源。ナチ党員だった兄は最後まで戦った誇りはあるものの、収容所送りを怖がり家に隠れて職に就かず、姉は夜に出掛けたキャバレーでアメリカ人相手の接待でタバコを貰う程度。配給があるとはいえ、家族4人がお腹を満たすことは出来ません。
物語は、元担任だった小学校教師エニングと再会して展開します。同時に偽石鹸で詐欺行為をはたらく不良少年らのグループと接触するも、仲間には加われない。家族が住むアパートの家主は冷淡で思いやりが無く、優しく接してくれる人がエニングひとりの状況がエドムント少年を追い詰めていきます。アメリカとソビエトに二分割された占領下、教職者追放の思想統制や闇取引の社会を背景に、まだ価値観の生育が成されない少年の行動の顛末を描いて、ロッセリーニ監督はイデオロギーの偏向を問題視しています。作者の想いがストレートに伝わる悲劇でした。映画の冒頭で、道徳とキリスト教の慈愛が人間生活で最も大切であると述べています。
演出で印象に残るのは、ナチ党員の元教師エニングの気持ち悪さです。偏向した思想に凝り固まった人物像には、どこかペドフィリアの嗜好が隠れている様に描かれていました。優しそうに見えて、冷たさもある謎めいた人物です。もう一つは、ラストのひとり彷徨うエドムント少年を追うカメラワークが凄いですね。ロッセリーニ監督の弟レンツォ・ロッセリーニの音楽とこの虚無感に包まれた映像が、徐々に追い込まれていくエドムント少年の心理を切実に表現しています。空き地でサッカーに興じる子供たちの輪に入ろうとして入れないシーン。ここで仲間に加えてもらえて、子供たち同士笑いながら楽しめたなら、エドムント少年のその後は変わったかも知れません。
ベルリンの暗く虚しい街並みを厳しく捉えた撮影監督ロベール・ジュイヤール(ロバート・ジュリアード)は、他にルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」と「居酒屋」、クルーゾー監督の「恐怖の報酬」、そしてルネ・クレールやロベール・ブレッソンの作品でも活躍しています。
ロッセリーニ監督の演出とジュイヤールの撮影が心に遺る、あまりにも悲しい少年の映画でした。
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