「人と世界をつなぐ映画ーー近代と前近代がせめぎ合う90年代ブラジル」セントラル・ステーション nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
人と世界をつなぐ映画ーー近代と前近代がせめぎ合う90年代ブラジル
1998年公開。今年公開された傑作「アイム・スティル・ヒア」のウォルター・サレス監督の世界的出世作で「ブラジル映画の金字塔」ともされる作品だそうだ。その実績通り、本当に素晴らしかった。わかりにくいところは一切なくヒューマンドラマとして楽しんで見られるし、人間っていいなと感動させてくれる。
しかし、その見やすさの背景に込められたものは多そうだ。現代劇なのに、戦後の上野駅を思い出させる駅で暮らす孤児の物語でもあるし、文字を書けない人のための代書屋が多忙な商売として成り立っているのも、50年100年時代が違う気がする。
また、聖母マリアがたびたび登場する。南米独特の世俗化したカソリック信仰がこの映画のポイントになっているようだが、実感としてよく分からない。
多分、この映画に感動し高く評価したブラジルや欧米の観客・批評家の半分も共感できていない気がする。その辺りを少しでも埋めるべく考えてみたい。
本作は、30年弱前の90年代当時の物語だ。ブラジルでは「アイム・スティル・ヒア」で描かれた軍事政権が80年代に終わり、90年代は民主化による発展と同時にハイパーインフレで不安定な経済状況だった。急速な経済発展が始まった国に共通だと思うけれど、出稼ぎとか都市への人口移動などで、地縁社会は破壊され、生活のために家族がバラバラになるという現象が起きているという時代背景がある。
代書屋という設定については、2025年現在のブラジルでは65歳以上の20%前後が読み書きができないようだ。そうした状況だから、この映画の撮影当時の中央駅にも、実際に手紙代筆業の人がいたそうで、大事な仕事だった。また、同時にBRICKSの筆頭として発展する今日のブラジルでも約50%の14歳以下の子供が何らかの貧困状態というデータもある。この映画の設定はドキュメントでもあるのだ。
主人公のドーラは首都リオデジャネイロのブラジル中央駅構内で代書屋をしている。元教師だが、現在は教師のスキルを活かして、一回数百円くらいの代書で政活費を稼いでいる。
代書した手紙を出さずに捨ててしまう詐欺師的な人物でもある。自宅で自分が書いた手紙を読んで「〜だから、こんな手紙出す必要なし」と勝手に判断している。ほんの少しの罪悪感を振り切るためだろう。
インテリだから文盲の人を下に見ているのか、経済的苦しさが言い訳になっているのか。あるいは独身のドーラには、家族への愛を伝える客へのルサンチマン的な恨みがあるのかもしれない。ドーラの中で、その全部がごちゃ混ぜになっているように見えた。
本作は、その罪深い世俗的な人物であるドーラが、回心し変容していく「心の旅」だ。孤児となった少年を、リオから遠く離れた地方都市へと連れていくというロードムービーでもある。この部分は、全く知らないブラジルの地方の様子が垣間見れてとても楽しかった。
印象的なのは、ドーラの罪の意識の薄さと共に、インテリなのに計画性がなく、その場その場での出来事に影響を受け、流されるように生きていることだ。
教会に行っている様子もないのに、聖母マリア信仰に導かれるように変容していく様子と合わせて考えると、半分、前近代的な意識下にあるように見える。
近代意識とは、自分で自分を監視する意識のことだ。だからこそ罪や恥の意識が生まれ、計画性もそこから生まれてくる。要はルールで自分を縛って生きることで、そこでは倫理や道徳は「こうすべき」というルールの枠組として提示されたものになる。
ドーラにはそのルールが感じられない。では神様に縛られているかというと「今は神様は見てないよ」などと言って他人にマイルールを破らせたりもする。近代人的に、神様はもう信じていないけれど、でも内面ではその存在を消し去れていないようだ。
ドーラの自我の弱さは、日本人と近く共感できるところだ。他人の影響をしっかり受け、他人の意見や眼差しに動かされて、そのせいで次から次へと出来事が展開し、その結果思いもよらなかった旅に出る羽目になる。
少年を引き取ったのも、善意からではなかった。元教師なのに子供への愛情が薄く、犯罪の認識も欠けている。それを少年は見透かしていて、ドーラを信頼しないし、仲良くもならない。そして、抗議の気持ちを眼差しで伝えている。
ドーラと少年の関係が変わる場面が、本作のクライマックスだ。逃げ出した少年を追って、カソリック信仰と祖先崇拝が入り混じった教会のようなところに迷い込む。この教会がドーラの回心・覚醒の舞台になる。まるで別次元へのタイムマシーン、あるいはマリア様の胎内に迷い込んだような表現でもあった。気絶して、目を覚ました時には、少年から愛情と信頼を向けられる人に生まれ変わっていた。
善き人として生まれ変わるには信仰が必要だという表現にも見える。でもドーラは、職場の駅で見つめるマリア像にも、また教会にも影響を受けたことはなかった。何かを訴える少年の眼差し、そして友人や旅の途中で出会った人たちの影響を、一つ一つしっかり受けることで、次第に善き人に変わって行った。神と向き合うのではなく、他人との関係性によって彼女は変わったのだ。
近代的な個人として、合理性と、社会・自分のルールに従って生きるなら、こうして情緒的な他人との関係の影響をしっかり受けることは難しいのではないだろうか。他人の眼差しは、不安感や息苦しさとして感じられて、よき影響を受けられない。その結果、人との関わりによってドーラのような覚醒、変容の機会も得らずにいるのではないかーーそんなことを考えさせられた。
本作は国立映画アーカイブでのブラジル映画週間で鑑賞した。同日、ブラジル音楽(MPB)のミルトン・ナシメントのドキュメンタリー映画の上映があった。僕はナシメントの大ファンなので、それを観るついでに本作を見たのだ。
ナシメントの音楽の魅力は言葉にしにくいのだけれど、太古からの歴史とか、生命体としての地球や宇宙とのつながりを感じさせてくれるところにある。大地の神、八百万の神に捧げるみたいな祈りの雰囲気のポップソングだ(今の日本人アーティストなら藤井風とかが近いかもしれない)。南米コロンビアの国民作家ガルシア・マルケス同様、神話的世界への扉を開いてくれる感じがする。
本作にも、その南米独特の、神話的、非日常世界との接続が確かに感じられる。そうした世界を、現代の合理的ビジネスマンである私たちは、非合理・非科学的で関係ない世界であると切り捨ててしまった。それと同時に、本当に大事なものとつながることも、あるいは世界との一体感みたいなものも失われてしまったのではないかと感じる。
ブラジル音楽が表現するものを表すサウダージという言葉がある。「郷愁、憧れ、切なさ」と説明されるが、翻訳しようがないから、そのまま使われる言葉だ。もういない人や過去の出来事や感情など、絶対に手が届かないものと音楽でつながろうとする感覚のことだと思う。
本作でも、もう出会うことはない人とのつながりの感覚こそが、その人を支えてくれるものであることが描かれていた。そして、それを手にいれる耐えには合理性や計画性などではなく、言葉にできない何かと一つ一つしっかりと出会って、自分ものとしていくことが大切だということを描かれていたと感じた。
だからこそ、ブラジルや西欧世界で本作が成功し、心の旅的なロードムービーがハリウッドで作られるような影響を得た得ることになったのではないだろうか。
南米ブラジル映画であるからこそ描ける深い精神性を描いたことが、本作の偉大な達成ではないだろうか。
