「汚れた白」白い町で まぬままおまさんの映画レビュー(感想・評価)
汚れた白
「何よりもまず、タネールは映画を発見した男なのである」(蓮實重彦「アラン・タネールは映画を発見した」『“アラン・タネール”』)
「タネールが描きたかったのは純白ではない。汚れきった白だ」(黛哲郎「実存主義の甘き香り」『キネマ旬報 1986年2月上旬号』)
船乗りのポールは、工場のように決まりきって閉塞された船を飛び出して、ポルトガルのリスボンへ降り立つ。彼はリスボンでヴァカンスをするわけでもなければ、新たな職を見つけるわけでもない。仕事は放棄し、故郷のスイスにいる妻の元には帰らず、未来のためには「何もしない」。ただ酒を飲み、ビリヤードをして、白い町をふらつく。本作には逆回りに時を刻む壁時計が登場するが、彼はあるべき日常から逆進した時間をリスボンで過ごすことになるのだ。それは死せる時間や空白の時間とも言えるかもしれないが、私たち観客はその奇妙な時間体験を追従することになる。
以下、ネタバレを含みます。
そうはいっても何も起きないわけではない。彼はリスボンの街を、時に自身に8ミリカメラを向けながら―妻へ送るためだ―歩く。ふらふら歩いていると、バーを見つけてビールを頼み、店員のローザと親しくなる。そして気分に乗じて、バーの上のホテルに泊まり、あれよこれよと過ごしていると、いつの間にかローザと性愛関係になってしまう。この展開は男の空想的でご都合主義的なものであることが否めないが、ポールは空白の時間の中で、一抹の親密さを得ることになる。
だが、それは既に常に終わりの予感を漂わせているのかもしれない。空白の時間を漂流するしかできないポールは、リスボンという地に留まれるわけでも、一人の女性を愛し続けられるわけでもない。
ローザにしたって、バーの店員として他者に憩いを与えるだけの存在ではないし―または蓮實重彦にならって、微笑みによる武装解除―、現にポールやリスボンをいつの間にか去ってしまう。
この関係の不定着さは、タネールが厳格なシナリオを書こうとせずに、エモーションがしみ出てくるのにまかせた制作スタイル、即興性に起因すると思われるが、どこか廃れて侘しく感じる。
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奇妙な時間体験を与える要素の一つに8ミリカメラで撮られたフィルムがある。あのフィルムは、ポールが撮影したものだろうけれど、所々にそうではないフィクションが存在している。例えば、ホテルの一室でのショット。8ミリフィルムのローザは微笑を浮かべるが、本作で最初に描かれるホテルのシーンではそんなものはない。また中盤でローザがポールのセックスの誘いを断る描写。8ミリフィルムでは、裸体を晒すほどに心を許した関係であったはずなのに、まるではじめて会った時かのようだ。そして最後に電車で対面に座る女性を捉えたショット。ポールは電車賃を得るために8ミリカメラを売ってしまったのだが、女性が8ミリフィルムで映し出されている。
これら物語世界の時間軸やリアリティを放棄した8ミリフィルムは一体何なんだ?物語の整合性がとれず、破綻しかねない危ういものだ。しかしこの8ミリフィルムには、ポールが存在証明のため妻に送る紀行フィルム以上の、空想や心象風景、エモーションが確かに滲みだしている。この滲みに浸るのは心地いいし、何より私の記憶や思い出も惹起される。そうか、これが空白の時間に漂流するということか。
ポールの寄る辺なさは何だか自分と通じるものがあるな…。そんな予感が漂うも、リスボンの汚れた白で掻き消したい。