ざくろの色のレビュー・感想・評価
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目眩く映像詩、聴覚の神秘体験
目に映るものすべてが、厳密に設計され、
その動きひとつひとつに心を奪われる
摩訶不思議な舞踊を観ているみたいだ
構図もアングルもドクトクでなんとも知れない味
織物布生地紙質のフェティシズム
まさに目で愛づるは
触感のアポカリプスとは言い過ぎかしら
宗教画フレスコ画壁画タペストリー
織物や宝飾品などなどとしか
わたしの稚拙なボキャブラリーでは出てこないが
これはまさに映画の玉手箱や!
あゝ彦摩呂は浦島太郎になり
見終わったあとの現実世界に
そして僕は途方に暮れる
大沢誉志幸
はあ、とため息ですよ
わりとカット数が多くすぐ次の場面に変わるので
最後まで飽きずに観れました
こんなに次から次へと美麗ヘンテコなメニューを繰り出してくるから寝るなんて気がしれない!
むしろ覚醒しました
お風呂場を延々と眺めて長回ししてるよな
タルコフスキーのようなかったるさは皆無
ホドロフスキー、丸山明宏、ミシェルオスロ、落下の王国、ウェスアンダーソン、ティルダスウィントンが好きな人は割と大丈夫じゃないかなあ
寝落ち映画万歳
お世辞にも意味明瞭とは言い難いショットの連続に幾度となく寝落ちかけた。しかし濱口竜介の言を借りれば、眠りから目覚めてもまだ映画が続いていることに感動すべきだし、そのことを肯定的に捉えるべきだ。
さらに本作に限っていえば、幾度入眠と覚醒を繰り返しても、物語の速度に振り切られて疎外を感じるようなことは決して起きえないことも一つの幸福だ。一応物語は章立てこそされているものの、そこに物語的な連続性はなく、奇矯な映像がひたすら断章的に羅列されていく。
もともと我々の目には眼前の映像を長時間捉え続ける能力などない。必ず数秒に一度はまばたきをしている。その刹那の暗闇と映画内の決定的な瞬間が被ってしまうことも往々にしてある。「私はこの映画を観た」などという言いぶりはそれ自体が傲慢だといえる。無論、「観客はこの映画を余すところなく観てくれるはずだ」と信じて疑わずに映画を撮る製作者も同様に傲慢だ。
だから観客が寝ることを念頭に置いた映画というものが私は割と好きだ。古くはアンドレイ・タルコフスキー『惑星ソラリス』からアピチャッポン・ウィーラーセタクン『ブンミおじさんの森』まで。重要なのは目覚めたときにまだ映画が続いていること、そして続きからでも罪悪感なく入り込んでいけること。
地面の上で魚がピチピチと跳ねたり、ビショビショになった本を乾かしたりする序盤の奇天烈で相互性のないショットを見て、私はこの映画で寝落ちることと、寝落ちることに罪悪感を抱かないことを同時に予感した。そして両方の予感は的中した。
寝ても覚めても夢の中のような映像がひたすら続く。目の前の映像なのか頭の中の映像なのかが徐々にわからなくなっていき、融解の快楽に包まれていく。この映画は明らかにそうなることを許してくれている。そこがこの映画の最も素晴らしいところだと思う。
大きな叫び声とともに教会のてっぺんから顔のようなものが落ちてくるシーンなど、ちょくちょくジャンプスケア的に目覚めを促してくるのもいい。本当にぐっすり眠り込んでしまうのもそれはそれで悔しいので。
不思議なもので、映画が終わりそうになると自動的に頭が覚醒する。ヒゲを蓄えた左官の男に「死ね」と言われ、主人公の詩人は死ぬ。そして作り物の羽を生やした天使たちに導かれ、不気味なくらい真っ黒な土手のほうへ去っていく。
そして最後に「詩人は死んでもその詩才は不滅である」という堂々たる字幕が映し出される。
これを映画に敷衍すると、「我々が眠っても(=擬似的な死に陥っても)映画は存在し続ける」とか?
眼差しによる肯定などなくても、映画は映画としてそこにある。それってメチャクチャ素晴らしいことだと思う。
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