「まずは男女の境界で、ティルダ・スウィントンに愛を叫ぶ。」オルランド Chemyさんの映画レビュー(感想・評価)
まずは男女の境界で、ティルダ・スウィントンに愛を叫ぶ。
「好きだー!ティルダーーーーっ!」
本作は間違いなくスウィントンという奇跡の女優ありきの作品だ。彼女がいなければこの作品は端から成り立たない。
原作は『めぐりあう時間たち』のヒロインでお馴染みのヴァージニア・ウルフの長編『オーランドー』。20世紀モダニズム文学の旗手であったフルフは、革新的な手法を用いた優れた小説をいくつも残しており、特に物語よりも登場人物の心理を深く掘り下げる「意識の流れ」手法で有名だが、この『オーランドー』はウルフ作品として一際異彩を放っている。
主人公オルランドは、3世紀の間年をとることなく生き続け、その間、性別を自然に変化させるという超人的な設定なのだ。映画化はほぼ不可能に近いこの作品を、スウィントンという女優を得て、女性であるポッター監督が、ウルフの時代からさらに1歩進んだ現代のオルランド像を創り上げた。独自のフェミニズム批評を展開していたウルフの、両性具有オルランドへ託したメッセージとは何か。一般的には同性愛関係にあったヴィタ・サックヴィル=ウェストへ恋文と言われているが、ウルフはオルランドを通して、それぞれの時代における社会的立場(あるいは風潮)にがんじがらめにされた性の解放を描いたのだ。男尊女卑の貴族社会での女性の地位の低さもさることながら、強くなければならなかった男性の負担。生まれながらにして決まっている性別のために、自分の意思とは違う人生を送らなければならない理不尽さを、性別自由の不老のオルランドが打ち砕いてくれた。
エリザベス1世(余談だが演じるのは男性であるクエンティン・クリスプ、なんて倒錯的)の寵愛を受けた青年貴族から始まり、現代のシングル・マザーまで、目まぐるしく変わるその時代の豪華な衣装を纏うオルランドが何とも魅力的なのだ。女優が男性を演じるとなると、“男装の麗人”という言葉を真っ先に思い浮かべるが、スウィントンが演じると「男を装う」のではなく「性を超越した」というイメージだ。私は青年貴族の彼女を観て、カラヴァッジオの描く肖像画を思い浮かべた。硬質な美しさの中にあるどこか皮肉めいた表情から放たれるエロティシズム。まさしく男でもなく女でもなく、神でもなく人間でもない人物だ。奇しくもスウィントンはデレク・ジャーマンの『カラヴァッジオ』でモデルとなる娼婦を演じている(余談だがスウィントンのユニセックスなキャラクターで一番なのは『コンスタンティン(フランシス・ローレンス監督)』で演じた天使(堕天使?)だと思っているが・・・・)。
以上のようなことを述べるとオルランドは神秘的な人物かと思われるかもしれないが、そうではなく、自らの弱い部分を知った上で、自分らしい生き方を求める人間味溢れる人物だ。初恋の相手に振られたショックで六日間寝込み、戦争のショックで再び六日間寝込む(その後、男であることに嫌気がさし女性に転身する)。結婚しなければ財産を失うにもかかわらずスケベおやじの求婚はキッパリ断るも、イケメンの放浪者にあっさり処女を捧げる。例え愛する人の望みでも、自分の生き方にそぐわなければ付いて行くことはない。あくまでも“自分らしさ”を失わない人なのだ。
華美な衣装を脱ぎ捨て、シンプルなスタイルで迎えるラストシーン。「幸福なの・・・」と涙を流す彼女の美しさ。空を舞う天使の祝福を受ける彼女は、今度こそ自分の娘と共に肉体的に成長していくのだと思う。
複雑な物語を、7つの章に分けすっきりとさせ、華麗なだけでなくコミカルな要素もふんだんに取り入れたエンターテインメントの歴史絵巻としたポッター監督の手腕が見事だ。