音のない世界でのレビュー・感想・評価
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異文化としてのろう社会
ろう者の世界を「障害」ではなく、異文化として捉えたドキュメンタリー作品として画期的だった。カメラに映るのは、ろう学校で口語の練習をする子どもたちや教師の姿、ろうのカップルの結婚式など様々だ。強制的にも見える口語の教育には、今観ると違和感を感じるのだが、そうした実態も含めてリアルにカメラに収めたのは貴重だろう。
映画の冒頭に出演しているろうの俳優、レベント・べシュカルデシュは『ヴァンサンへの手紙』にも出演している。本作は、ろうのコミュニティの間では意見の分かれる作品であるようで、ろう者の視点に欠けるという批判もあるようだ。時代が進み、ろう者の視点により近づいた『ヴァンサンへの手紙』と比べると確かに違和感を感じる部分もある。しかしながら、優れた作品であることには変わりなく、とりわけ音声が唐突に途切れるシーンはドキリとさせられる。子どもがマイクに掴みかかるのが原因なのだが、なぜあのNGにも見えるあのカットを使ったのか、監督の深い真意がそこにあるのかもと、と思わせられる。
二コラ・フィリベール特集 - その1 30年近く前のフランスのろ...
二コラ・フィリベール特集 - その1
30年近く前のフランスのろう学校に通う子供達や先生の日常を捉えたドキュメンタリーです。
いやぁ、知らなかった事が多くてとても勉強になりました。まず、手話を貶めてろう者への口話教育に拘り続けたのは日本だけだったと思っていたのですが、フランスもそれほど遠くない頃まで「ろう者への口話教育」にしがみついていたんですね。この作品では「現在では口話と手話のバイリンガル」に取り組んでいると先生が話していましたが、恐らく現在ならばそれも更に変化しているのではないかと思います。
また、一口に手話と言っても国ごとに異なっているのは知っていましたが、「国が異なっても、二日も一緒に居れば意思の疎通が出来るようになる」と先生が語っていました。へぇ~、それってすごいですよね。エスペラント以上の世界共通語です。各国で共通の単語もあるのでしょうが、文法も異なる筈なのにそれをどうして乗り越えるのでしょう。もっと詳しく知りたいなぁ。
また、昔はろう者を家庭内・狭い地域内の中だけで育てていたので、当時のろうの子供は「ろう学校に行っても、ろうの子供ばかりで耳の不自由な大人が居ないので、『ろう者は長生き出来ず、大人になる前に死んでしまう』と思っていた」と語る言葉は重いですね。様々な障害を持つ人々が少しずつではあっても社会に出られる様になった現在は確かに良い方向に進んでいるのでしょう。
暖かい木漏れ日のような映画
耳の聞こえない聾唖者の子供たちが学校で勉強する様子と、
大人の聾唖者の生活を交互に描いている。
最初は意外な聾唖者の生活に驚き、好奇心を刺激されながら映画に見入っている。
そのうちにゆったりとしたスピードながら価値観の転倒がおそってきて、観客は気楽な傍観者ではいられなくなる。
控えめで節度ある自然音と、暖かい木漏れ日のような映像は美しく、
映画が彼らの人生を優しく肯定しているようだ。
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以下は個人的に気になったこと
手話は話し言葉の代用ではない。しかし、話し言葉と手話では言語の数に違いがあるようだ。
物より先に言葉があるということを信じるとすれば、健常者と聾唖者では見えている世界、感じている世界も違うということになる。
彼らはどんな風に世界を見ているのだろう。
多文化としてのカテゴリ
ろうあ者の生活を追ったドキュメンタリー。
ろうあ者というとハンディキャップの面でしかとらえていなかった。
彼らの日常風景をこの映画で観て、手話が障がい者の為の単なる代替言語ではなく、音に依存しない独自の豊かさをもったコミュニケーション手段だと感じた。
たとえば、海外で外人のろうあ者と出会った場合について。辞書に首っ引きになってもコミュニケーションをとれないが、手話であれば2日もあれば話せるようになる、と語っていたことが印象的だった。
複雑なボディランゲージである手話は、囁きや怒鳴り声、喜びの声などが聞こえてくるようで、感情豊かに見えた。
音声をともなう言語の方が手話より優れているというわけではない。
ろうあ者が健常者と比べて、人生の全体が劣っていることではない。全く変わらなくもあるし、異なる部分も勿論ある。
健常者に比べて足りない部分がある、というのではなく、ある種多文化のカテゴリーとして感じられるような、瑞々しい価値観を感じた。
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