劇場公開日 2022年3月4日

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「神話に埋め込まれた「現実」」王女メディア neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 神話に埋め込まれた「現実」

2025年10月22日
PCから投稿

『王女メディア』は、単なるギリシア神話の映画ではありません。マリア・カラスという実在の女性の人生と、パゾリーニ自身の精神的な葛藤が、神話という形式に変換されて描かれた作品です。表面的にはイアソンとメディアの悲劇ですが、実際には現実と神話が一体化した「現代の神話」として成立しています。

まず前提として、この映画の背後には巨大な現実の物語があります。マリア・カラスは20世紀を代表するオペラ歌手でしたが、私生活ではギリシアの大富豪オナシスと恋愛関係にありました。オナシスは今で言えばイーロン・マスクやジェフ・ベゾスのような超富豪で、実際にカラスに石油タンカーを贈ったとも言われています。ところが彼はやがて彼女を捨て、暗殺されたJFKの未亡人ジャクリーン・ケネディと結婚しました。この事件は、芸術と金銭・権力の断絶を象徴するものであり、当時のヨーロッパ文化圏では大きな衝撃を与えました。

その失恋と喪失の中で、カラスはパゾリーニと出会います。パゾリーニは同性愛者であり、二人の関係は恋愛ではなく、深い友情と理解によって結ばれたものでした。彼はカラスの中に「聖なるもの(sacralità)」を見出し、カラスはパゾリーニの中に「救済」を見出そうとしました。しかしその絆は、互いに異なる救済を求めたまま、数年後には途絶えてしまいます。現実ではどちらも救われず、パゾリーニは1975年に悲劇的な死を迎え、カラスも孤独のうちに亡くなりました。

この映画は、その現実の悲劇を“神話の形式”で昇華したものです。イアソン(=オナシス)とメディア(=カラス)の関係を通じて、パゾリーニは「聖なるものを失った現代文明」の姿を描きます。映画冒頭、メディアが少年を生贄にして血を大地に塗る場面は、死を通じて生命を循環させる“聖なる時代”の儀式です。ケンタウロスが「すべてが聖なるものであった時代には、どんな生もどんな死も世界と断絶していなかった」と語る通り、そこには生と死、自然と人間が一体であった世界が示されています。

やがてイアソンが登場し、理性と欲望の文明がその聖性を破壊します。弟殺しや裏切りは、単なる愛憎劇ではなく、「神話から理性への転落」「聖性から物質への堕落」の象徴です。メディアがすべてを焼き払うラストは、復讐というよりも、失われた聖なる世界への帰還――もはやそれが可能でないことへの絶望の炎です。

また、興味深いのは、パゾリーニがマリア・カラスの声を使わなかったことです。オペラ歌手としての最大の武器である“声”を意図的に剥奪したのです。理由は「カラスの声が現実的すぎて神話にならない」からでした。パゾリーニは、彼女の現実的な情念ではなく、沈黙の中に宿る聖性を撮りたかった。現実のカラスが失っていた「声」と、映画の中で奪われた「声」が重なり合い、彼女の喪失と再生を象徴しています。

ケンタウロスの存在は、パゾリーニその人の分身です。半分獣で半分人間――すなわち詩人であり、同時に理性に堕ちた現代人。かつて神話と共に生きていた自分がもう存在しないことを嘆き、語りながら消えていく。メディアに“聖なるもの”を見出したパゾリーニ自身の内なる声でもあります。

こうした構造を知ったうえで見ると、『王女メディア』は単なる文学的神話映画ではなく、「芸術と聖性の再生」をめぐるドキュメントに見えてきます。カラスは現実に裏切られた女でありながら、映画の中で神話的存在として蘇る。パゾリーニは彼女を撮ることで、自らが失った“詩人としての聖性”を一瞬取り戻そうとした。つまりこの映画は、カラスのためであると同時に、パゾリーニ自身のための祈りでもあったのです。

今の観客がこの映画をそのまま見ても、意味がつかめないのは当然です。オナシス事件も、カラスとパゾリーニの関係も、背景を知らなければ、この映画の感情の振幅がどこから来るのか理解できません。ですが、その背景を知れば、すべての断片が一本の糸でつながります。神話と現実、愛と芸術、聖と俗が混じり合い、互いに救われぬまま世界を燃やしていく。『王女メディア』は、まさに現実そのものを神話として撮った映画なのだと思います。

鑑賞方法: Blu-ray (2Kリマスター)

評価: 90点

neonrg