「ナラティブが紡ぐ「真実」」エレンディラ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
ナラティブが紡ぐ「真実」
「マジックリアリズム」という用語が示す通り、ラテンアメリカの文芸では現実と夢想が厳格に区別されない。言ってしまえばナラティブが紡ぎ出すリアリティにこそ至上の価値が置かれている。
ラテンアメリカ文学はある時期に世界的なムーブメントをみせたが、その中でもガルシア=マルケスほど存在感のある作家はいないだろう。
マルケスの小説はとにかく長い。『百年の孤独』も『コレラの時代の愛』も読むのにかなり苦戦した覚えがある。にもかかわらず最後まで読ませてしまう求心力がある。言うなれば親戚のオッサンが酒の席で語る四方山話という感じ。ハイハイそうだったんですね、と話半分に聞いていたはずがいつの間にかのめり込んでいる。そこには誇張がある。ウソか本当かわからない話が混じっている。魔法を使うジプシーとか、50年もの間一人の女に貞操を捧げ続けた男とか。しかしそれらのエピソードが形作るナラティブには事実を超越した真実性がある。
マジックリアリズムは単なる一つの文学的方法論とみなされることも多いが、その根底には文学的な問題意識というよりは、もっと素朴で普遍的な、「語る」という行為に対する欲求があるように思う。何かを語りたい、そしてそれを誰かに聞いてもらいたい、という欲求。
ラテンアメリカ文学において現実と夢想が混同されるのも、現実のみ(あるいは夢想のみ)を語るのでは立ち現れ得ないリアリティを描き出すためなのかもしれない。
さて、本作はマルケスの中編『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨な物語』を原作としている。
ガルシア=マルケスの、ひいてはラテンアメリカ文学の心づもりをきわめて精緻に汲み取った素晴らしい映像化作品だったと感じた。
蝶が壁のシミになったり、恋に落ちた青年がガラスの色を変える力を会得したり、ミカンを割るとダイヤモンドが現れたり、毒を盛っても爆破しても死なない老婆が出てきたり、マジックリアリズム的な摩訶不思議世界がとめどもなく展開されていく。しかし美麗な画面構成・演出ゆえ、それらが不毛なシュールレアリスムに陥っている感じがまったくない。これはきわめて重要なことだ。
確かに、現実と夢想をごちゃ混ぜにすればそこには道理を外れた何らかの差異が生じる。普通であればそれは自然にシュールな笑いへと転化するのだけれど、ラテンアメリカカルチャーにおける「語り」はそういう小手先の笑いであってはならない。現実だろうが夢想だろうが語られるできごとはすべてがシリアスな真実なのだから。
さて、本作の物語の主題は何か。かなりシンプルではあるものの、それは「親子という呪い」だろう。不注意から火事を起こした孫娘エレンディラと、彼女に売春による贖罪を強要する祖母、という構図はまさしく不健康な毒親家庭と呼ぶに相応しい。
エレンディラははじめ、愛によってこの呪いを逃れ出ようとする。彼女は自分を連れ出しにきた青年(彼もまた毒親に悩んでいる)と共に家を飛び出すが、その途中で芸術家の男に「あんたは死と愛を取り違えてるよ」と忠告される。
男の忠告通り、逃避行は失敗に終わる。おそらく彼女はもはや自分がどうなろうと構わないと考えていたのだろう。逃避は彼女の緩やかな自殺行為だった。しかし祖母の呪いは希死念慮をも貫通して彼女を引き戻してしまう。
やがて祖母の過去が明かされる。彼女は愛した男にこっぴどく裏切られたことがあったのだという。それ以来心を閉ざし、自分を無底的に肯定してくれるエレンディラに依存するようになったのだ。
おそらく冒頭でエレンディラが引き起こしてしまった火事もまた、マジックリアリズム的に解釈すれば、祖母の激烈な依存心の物理的現出なのではないかと思う。
いよいよ祖母の重圧に耐えきれなくなったエレンディラは青年と結託して祖母を殺そうとする(殺す、という選択肢を採択できるあたりがラテンアメリカ圏の倫理観だなあ…と思う)。
しかし祖母は毒を盛ろうが爆破しようがなかなか死なない。このとき祖母は「親の呪い」そのものの象徴であったといっていい。したがってエレンディラも青年も彼女を殺せない限り、永遠に家族の呪いから抜け出せない。
最後は青年の執拗な刺突によってようやく祖母は事切れるのだが、その血液はおぞましいほどに真っ青だった。愛こそが人間の条件であり、それを失ったものは化物に成り果てる他ないのだ。
喜びも束の間、エレンディラはうろたえる青年を突き飛ばすとそのまま砂漠の彼方へと走り去っていく。かつては己の「死」によって呪いの円環から脱しようとしていた彼女だったが、今やその正反対である「生」に向かって一心不乱に駆けていくのだった。
なぜ彼女が青年を見捨てる必要があったかといえば、愛を実現するためにはまずは自分が生きなければいけないからだ。森羅万象の根源に「生」が規定されているさまは正しくラテンアメリカという感じがする。亜熱帯の重密な空気に育まれるパッショネイトな生命神秘。そういうものが息づいている。ヴェルナー・ヘルツォークが『アギーレ/神の怒り』『フィツカラルド』を通じて南米の密林に執心していた理由が、その一方で高度経済成長に湧く日本の摩天楼を無価値とした理由が、なんとなくわかる気がする。
現実と夢想の織り成すカオス、そして生の躍動。フィルムを通してラテンアメリカカルチャーの熱気をじかに感じることができる一本だった。