田舎司祭の日記のレビュー・感想・評価
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「それがどうした?すべては神の思し召しだ」
田舎に赴任してきたインテリ気質の若い司祭。彼は熱心な宗教活動に励むが、村の人々は彼のことをあまり快く思っていない。教会のミサにはほとんど誰もやってこないし、宗教問答の授業に来る子供たちはその狡猾な性格で青年を困らせる。なぜ人々は司祭を、そして神を信用しないのか。終盤、街を出ていく司祭をバイクで旅館まで送迎した青年がその理由を教えてくれた。「あなたは世間知らずだ」と。青年の知人にも司祭がおり、彼は戦争で死んだ。今際の際に彼が吐きつけたのは神を呪う言葉だったという。
神は存在するのか?そして信仰はいかにして可能なのか?この素朴だが重大な疑念は映画全体を通じて若い司祭を苦しめ続ける。赴任中、彼は宗教的不安に取り憑かれた中年女性に説教を聞かせ、半ば荒療治的に信仰を取り戻させる。しかしその直後、彼女は自殺してしまう。司祭は自分の説教によって他者の人生を大きく左右できてしまうことに戦慄すると同時に、ある種の快感を覚えている自分自身を発見する。あれだけ村の人々に「自我を捨てよ」と説教している自分自身が、誰よりも自我に執着しているという滑稽な矛盾。思えば「日記を残す」という彼のルーティンもまた自意識の確認作業だといえる。
宗教的不安は司祭の精神のみならず身体にも表れはじめる。慢性的に胃の悪い彼はパンとワインだけという質素な食生活を送っている(言わずもがなキリスト教のアレゴリーだ)が、これによってむしろ彼の病状は悪化していく。そして終盤、医師から告げられる胃癌の宣告。これほど信心深く宗教活動に励んでいた自分がなぜこのような目に遭わなければいけないのか。自分は本当に神に見捨てられてしまったのではないか。
心身共にやつれ果て、神学校の旧友のもとで最期の刻を迎える司祭。絶えざる宗教的不安の果てに彼は一つの結論へ辿り着く。彼はロザリオを胸に掲げながら呟いた。「それがどうした?すべては彼の思し召しだ」。
世俗と信仰の狭間で揺れ動き続けた彼は、死の目前でようやく神を発見する。ろくに信心も持たない私からすれば、彼の最後の言葉は美しいというよりむしろ気味が悪い。しかしそれがどうした?誰に嫌われようと世間知らずと言われようと、彼は自分の存在の一切合切を委ねることのできる対象を、神を発見したのだ。
世俗と信仰の断絶はもはや埋まらないという時代の気配を、その中間者である司祭の懊悩を通じて描いた秀作だったように思う。
このブレッソンも必見
映画史上のベストディレクターの一人、ロベール・ブレッソン。日本では劇場初公開となる1951年の長編第3作。
布教と善行に励む若き司祭。彼の純粋な信仰は赴任した村で受け入れられることなく、信仰への懐疑と苦悩を抱えたまま病に倒れた。
救いのない悲劇を淡々と語るのはブレッソン流。ただしこの時まだ饒舌。このブレッソンも必見。
試される信仰、苦悩する若き司祭。とはいえ、こんな司祭、俺なら嫌だなあ。
この春に同じシネマカリテで、ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』(66)と『少女ムシェット』(67)を観て、その演出および演技を出来る限り排した特異な作風(監督自身の命名によればシネマトグラフというらしい)と、主人公をとことん追い込む地獄めぐりのような内容に感銘を受けた。
監督の第三長篇となる『田舎司祭の日記』(51)もまた、主人公を酷薄なまでに追い詰め、逃げ道をふさいでゆくような「受難劇」としての構造は、先に挙げた二作と変わらない。
シネマトグラフとしても、本作が彼独自の流儀を確立した最初の一作とされているようだ。
ただし、たとえば『少女ムシェット』で見られたような、人形に振りつけをして「型」をこなさせている類の「異様なまでに禁欲的な」スタイルにまでは至っていないし、司祭役の青年は素人とはいえ演技がナチュラルに上手なので、たとえ監督の要請を受けて、抑え目で最小限の演技しかしていなかったとしても、違和感なく観られる仕上がりだった。
内容は、僕にとっては、『バルタザール』『ムシェット』と比べても格段にとっつきにくいものだった。
全編、神の存在と恩寵をめぐるモノローグとダイアローグで形成されているのだが、これが字幕だけ追っていても正直よくわからない。
前二者は「絵」さえ観ていれば、相応になにが起こっているかはつかめたが、今回はほぼすべての情報は「会話・独白」から提供されるので、どうしても内容の把握を字幕に頼ることになる。で、これがどうにも難しいうえに「ほんとにこんな訳文なのかな」みたいな感じで……。浅学の私には、今一つ歯が立ちませんでした(ネイティヴからすれば「音」で入ってくるので、まだつかみやすいのかもしれないし、英語セリフなら多少は補佐的に原語情報も脳内で使えるんだけど、仏語はまったくわからないもので)。いや、一応なんの話をしているかくらいは充分わかったんだけど、司祭と周囲の人物が語る内容に立ちいって言及、考察するほど厚顔にはなれないというか。
さらにいうと、作りがとにかく「ちょっとしたことが起きる」「対話」「独白&日記つけ」の単調な繰り返しのうえ、ひたすらダウナーな司祭のダウナーな語りで訥々と進行するため、猛烈な睡魔に何度も襲われまして……(笑)。抗しがたくなって一瞬意識を手放すと、とたんにいま展開されている議論が追えなくなる(音じゃなくて文字で追ってるから)。もちろん100%僕が悪いんだけど、たぶんこの物理的・生理的現象は僕だけに起こっている現象ではないと思いたい……。
宗教観の違いも、やはり映画を無心に享受するには、どうしても障害になってくる。
自分もまた、多くの一般的日本人同様、麻雀で「ツキ」がある(幸運の神)とか、お盆にはお墓参りしなきゃ(祖霊信仰)といった部分を超えた、人格神としての神の存在を信じることはとても難しく、司祭のいっていることに正直共感しがたいところがあるのは、どうにも否めない。
自分の息子が死んで悲しみに暮れていたとして、あんな若造にとうとうと「少しのあいだ離れているだけなのです」とかのたまわれたら、俺だったら水ぶっかけて箒で追い出すね。
そもそも、田舎司祭ってのは、日本人からすれば村の住職みたいなもんでしょう?
それが、あんなに根暗でダウナーで胃痛でいつも蒼白な顔した若者が来たら、どうなんだろう。
村民の無駄話や愚痴をまずは「きいてやる」のが、一番の仕事だと思うんだけど。
それを、なんか怖い顔して「ちがいます」「神はそうではない」とか言い返してくるような子に、居場所とか端からないんじゃないだろうか。
けっきょく終盤に明かされる病名だって、ずっと神経性の胃炎を放置してたからそうなったわけで、こういっちゃなんだが自業自得だし、肉と野菜が食えないからってパンと葡萄酒しか食べてなかったら、そりゃアルコール依存にだってなる。だいたい、彼が最初から暗くてしんどくて苦しいのって、神がどうとか信徒がどうとか以前に、「単純に体調が悪いから気鬱になってる」「酒量が増えて頭が回らないからよけいに混乱してきてる」ってのが真実なのでは? もっと早く病院いけよ。
ていうか、この「肉と野菜」が「一般的な人の生活や青春の快楽」の象徴で、「パンと葡萄酒」が「イエス・キリスト」の象徴なんだろうというのは、なんとなくわかる。若気の至りで世俗から距離をとりすぎて、神のみに依存して内にこもって神さま神さまいってたら、ふつうにアウトサイダーになっちゃうし、ふつうに死ぬよって話ですね。
この主人公の内向性や、非社交性、独善性を、我がこととして共感できたら印象もずいぶん違うのだろうけど、僕は基本的にこういういじいじ、うじうじしたタイプの主人公は概して苦手で(ウェルテルとか)、一事が万事、先輩司祭のいうとおり、もう少し気楽にやっていれば、ぜんぜんこんなことにはならなかったろうに、としか言いようがない。
あとやっぱり、『バルタザール』の「ロバ」や『ムシェット』の「少女」がまごうことなき「社会的弱者」であるのに対して、主人公の属性「司祭」が必ずしもそうではないという点は、僕のなかで作品への共感度に大きな差が生じている要因かもしれない。
ロバや少女は、受難に巻き込まれても、立ち向かう手段をもたないし、サンドバッグになるしかない存在だ。だから、苦しんでいれば相応に可哀想に思うし、応援もする(もちろん、見た目が愛くるしいってのも大きいんだけど。こっちの司祭は若いころの苫米地英人みたいだし)。
しかし、「司祭」は違う。元来、司祭はたとえ若輩であっても、「権力の側に立つ」人間なのだ。
しかも、神という絶対的な後ろ盾がいて、一般の神学を学んでいない信徒には抗弁する余地のない存在である。もちろん本人にだって信仰の苦しみくらいあるだろう。それでも、村の住人を相手にするときは、神の威光を借りる存在だからこそ、とことん謙虚に、聞き役にまわり、太っ腹で鷹揚なところを見せ、愛されるようにふるまう「義務」があると僕は思う。彼にそれができていない以上は、まずはそこからやってこうよ、あるいは対人商売がそこまで苦手っていうんなら、修道院とかで研究に没頭してるほうがあんたのためにもいいじゃないの、というのが、僕の偽らざる感想だ。
とまあ、さんざん苦言を呈しておいて、なんなのだが。
この陰鬱で重苦しい映画のなかで、司祭がたしかな笑みを浮かべるシーンがある。
ちょうど『少女ムシェット』のゴーカートのシーンに相当するような、「一瞬の解放」。
町の病院に行くと決めて駅まで向かう道すがら、バイク乗りの青年に出会って後ろに乗せてもらうシーンだ。
風を浴び、道路を疾駆するバイク。
相手の腰に手を廻して、体と命を預ける感覚。
肩の力が抜ける。背負っていた何かがふっと消える。
つい、ほころぶ表情。快活な笑顔。
この瞬間、司祭は、ひとりの年若い青年にもどる。
駅でバイク乗りの青年はいう。「ずっと、あなたと友達になりたかったのに」
困惑する司祭。
本当は、抱える問題も、胸を燃やす苦しみも、ぜんぶ「内から」来たものではなかったのか。
実は、その解決のいとぐちは、とても簡単なことだったのではなかったか。
青春を「忌避」した彼の短い人生に、救いはほんとうに「神の恩寵」しかなかったのか。
そう考えると、今更ちょっと可哀想になってきた。
上映中、気鬱の司祭の苦悩にまるで寄り添えなかった自分の不明を恥じたい。
「神は死んだ」?
世界大戦という、既存の秩序がひっくりかえってしまうような大きなことが起こって、そして、終わっていったあとで、もはや神を容易に信じることができない時代においての司祭の苦悩が描かれていた。(1950年公開の映画)
ニーチェの「神は死んだ」が、哲学というある意味では高尚な思想から、だんだん人々の日常のレベルに降りてきて、生活のなかで、実感として直面しなければならなかった時代のことなのかもしれないと思った、司祭の担当する教区の人々にも、もはや神を信じることができなくなっている人々の姿も描かれていたから。
神にいくら祈っても、不倫問題は解決しないし、大事な人は死ぬし、病気もよくはならない。神を信じている人ほど、それは自分の祈りが足りなかったり、行いが悪いからだ、と自分を責めてしまう、
それでも、司祭は、神を信じて死んでいく、それはなぜだったのだろう、
司祭が自分は結核じゃなくて、胃癌だった、と言うのも気になるところ。昔、結核で死ぬのは美しいこととされていた時代もあったから、それもなにか関係あるかもしれない、
司祭なのだから、全てを神の前で告白し祈祷すればいいものの、日記でなら思ったことをありのままに書いても差し支えはないだろう、と思ってしまうところ自体に、無意識的な信仰の揺れを感じられるのかもしれない、と思ったりもした。
【揺らぐ絶対主義的価値】
司祭は、キリスト教、つまり、カトリックのメタファーだ。
二つの大戦を経て、それまでの宗教的価値は揺らぎ、司祭が問答を繰り返して揺れ動く姿や少女との交流は、カトリックが自己崩壊しつつあったことを示唆しているのだと思うし、領主や村人との軋轢や、彼らの従来の価値観へのチャレンジも崩壊の序章だったのだ。
映画「二人のローマ教皇」で、現在、ローマ・カトリックは、神父達が起こす性的虐待について、当事者を裁くことを躊躇(ためら)うばかりか、隠ぺいしようとする傾向が強く、この体質について一般社会からの批判や怒りが頂点に達し、性自認を含む新たな価値観を含む相対主義の挑戦と共に、ローマ・カトリックの土台を大きく揺さぶっているという話しがあったと思う。
これも、前段の文脈と照らし合わせると非常に類似しているように感じる。
内部崩壊と外部からの価値観へのチャレンジ。
こうしたカトリックの宗教的価値の崩壊は、この時点で既にあったのだ。
相対主義の対義語は、絶対主義だ。
絶対主義は、歴史や文化的なものに依存せず、どのような観点からも正しいとされる命題があるのだという考え方で、それこそがキリスト教の神なのだという、キリスト教の18世紀中頃の思想から始まったものだ。
その後、絶対君主制と歩調を合わせるように生きながらえてきたカトリックの絶対主義的価値は、革命や、二つの大戦を経た民主主義社会への道程のなかで、揺らぎ始め、現在に至っているのだ。
シネマトグラフという手法に触れるとともに、秘められたメッセージを考える作品ではないかと思う。
現代にも通じるメッセージで、古いとか、決して過去に追いやられるようなものではない気がする。
C'est La Vie
ロベール・ブレッソン監督の作品は1966年の「バルタザールどこへ行く」を観て、大変に感銘を受けた。本作品はそれより15年前の1951年の作品で、ブレッソン監督が50歳ころに製作されている。
当時のフランスではジャン・ポール・サルトルらによって実存主義が人口に膾炙していた。サルトルの実存主義は無神論であり、それが流行していることに対して聖職者の苦悩は大変なものだったであろうと想像される。
本作品の主人公である若い司祭も、第二次大戦後の白けた雰囲気の中で布教するのは相当な苦難であり、同時に彼自身の信仰を失わないでいるのも至難の技だったと思う。教えている女子生徒たちから感じる敵意のようなものが、彼自身の精神の不安定さをよく現わしている。
本作品で扱われている死は、神に召されたという宗教的な尊厳のある死ではなく、単なる肉体の死滅、あるいは物理的化学的な現象として合理的に受け止められる。葬儀は死者の魂のためものもではなく、死んだことを周知させる儀式となっている。そこには司祭の出る幕はない。死んだのは神のほうだったのかもしれない。
殆どの登場人物の芝居は表情に乏しく台詞は棒読みのような映画だが、主人公である司祭だけは悲しみと苦しみの表情が豊かで、ブレッソン監督は宗教や宗教者ではなく人間を描きたかったことがよくわかる。最初は整っていた日記の字が、最後は乱れて殴り書きのようになる。司祭の苦悩の振れ幅が大きくなっている現れだろう。
司祭の十字の切り方が、手の平を外側に向ける珍しい切り方で、この当時の聖職者は自分ではなく信徒に向けて十字を切るのだと思った。信仰は自分ではなく信徒のものなのだ。しかしその思いも虚しく、司祭の信仰は人々に伝わらない。虚しさだけが残る、とても寂しい映画だが、これが人生なのだと言われている気がした。C'est La Vie。
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