足ながおじさんのレビュー・感想・評価
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パクス・アメリカーナを象徴するカネで愛情を買う大人の童話w
原作の『あしながおじさん』を読んだ人には、少々心外な映画だろう。
というのも、ウエブスターの小説は基本的に少女向けの童話であり、孤児院にいた18歳の女の子が篤志家の計らいで大学に進学し、そこで学び、同窓生たちと交流しつつ、初めはおずおずと、やがて大胆に周囲の社会に踏み出していく瑞々しい成長物語だからだ。
あしながおじさんことジョン・スミス氏は、それまでにも何人も孤児を大学に入れてやった実績があり、本作の主人公ジェルーシャ(ジュディ)・アボットが特別というわけではない。そして、寮で同室となった別の少女の親族、ジャーヴィス・ペンドルトンとしてジュディの前に現れ、最後まで自分が彼女の支援者とは明かさない。
そんな30代と思しきおじさんにジュディは惹かれ、二人は近づき、やがて結婚を考えるまでになる。支援や恩義を介在させない関係だから、愛情にまじりっけがなく潔癖である。
そして、読者はとっくにスミス氏が何者か気づいているのに、ジュディだけ知らないまま、最後になって初めて彼に面会に行くと、突然現れたジャーヴィスから「ジュディちゃん。ぼくがあしながおじさんだったとはぜんぜん気づかなかったの?」と打ち明けられ、大きな驚きと愛情と幸せに包まれる…ああ、なんという古き良き時代w
ところがところが、映画では主人公が孤児院の少女という設定は同じでも、ジュリーというフランスの少女となっているではないか。アステア演じる中年男は篤志家でもなんでもない、単なる気まぐれで少女を米国に呼び寄せ、それきり忘れてしまうというずいぶんな人物である。年齢ももう50代で、女子大生と惚れたはれたを演じるには熟しすぎている。
アステアは支援者だとは明かさないものの、いい歳をして平気でジュリーに接近し、愛に陥ると、あろうことかカネに物を言わせて恋敵の青年を南米の彼方に追いやってしまうのである
やがて求婚するためとてつもなく高価らしい婚約指輪を買い求めるのだが、訳知り顔の店員は「その大きさの宝石で相手に断られた方はおりません」とにんまりする。
恐らく無理やりの設定だということは制作陣も承知の上なのだ。その上で、「俺はカネがあるんだし、それで愛情を得て幸せになれるならノープロブラム」とでも言いたげではないか。恋愛にカネが介在する不潔さなど思いもよらないようである。
ちょっと待った…これは何かに似ている! これは…第二次大戦後、戦争で荒廃したヨーロッパをマーシャルプランで復興させ、米国が世界秩序の半面の覇者となったパクス・アメリカーナそのものではないか。
むしろそれを想起させるため、ことさらフランスの貧乏な少女をアメリカのカネ持ち中年が支援するという設定にしたのではなかろうか? この映画は、実は第二次大戦後の世界政治を象徴する大人の童話なのであるww
そんなバカげたことを思いつつ、たしかにアステアのダンスはスゴイんだろうな、でもダンスなんか見てもしょうがないなあ…てな感想を抱いた小生は、野暮天にすぎるのかもしれませぬ。しかし実生活でも慈善事業に取り組んだジーン・ウエブスターは、草葉の陰で怒っているだろう。
求婚は拙速
お馴染み、一世を風靡したフレッド・アステアのダンス・ミュージカル映画。
足ながおじさんのイメージは恵まれない孤児への篤志家なのですがこの結末は個人的には全く頂けません。勿論足ながおじさんは悪人ではなく若者に負けないくらいダンスも達者で明るい人柄、それなりの自覚、葛藤は有るように描いていますが、大使の苦言通り良識ある大人としては世間知らずの乙女に対していきなりの求婚は拙速、アンフェア過ぎてアウトでしょう。
原作ではジュディは卒業後、農園で働きながら小説家を目指すと言うクッションがあり、孤児と言う来歴で恋愛に臆病になっていると言う心情の吐露があってからの求愛だったと思います。
流石に脚本家は分かっていたようで大きなダイヤの指輪の購入シーンで、返品を質すと「この手の大きな石で断られたケースはありません」と返す宝石商、いかにも世俗的な話と念を押すような自虐的なセリフを入れ込んでいましたね。大スター、フレッド・アステアのミュージカルとしては歌と踊りとハッピーエンドであればなんでも良いのでしょう。
人それぞれですから年の差婚や玉の輿的な婚姻を否定する気はないのですが、どうも「金色夜叉」やキンキ・キッズの「硝子の少年」の歌詞のような心理バイアスが自然にかかってしまっているようです、ごめんなさい。BSでやっていたのでたまたま鑑賞。
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