「エディ・デューチンの美化された半生だが、事実より人間のこころの真実に触れたハリウッド映画」愛情物語(1955) Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
エディ・デューチンの美化された半生だが、事実より人間のこころの真実に触れたハリウッド映画
1951年に急性骨髄性白血病により41歳で亡くなったピアニスト、エディ・デューチンの半生を描いた、日本語タイトル通りの切なくも美しい愛情物語。デューチン率いるオーケストラの演奏場面も多く、音楽映画としての魅力も充分あるが、主軸は妻オルリックスと息子ピーターに寄せる愛情をきめ細やかなタッチと暗示的な台詞で綺麗に纏めた人間ドラマの創作が特徴だ。実際のデューチン楽団には女性ボーカルが加わっていたというし、後に父と同じくピアニストになったピーターの証言にも、事実とはかけ離れた映画のストーリーと指摘があり、これは1950年代のハリウッド映画の様式に沿った美化されたドラマになっている。今日のリアリティ追求とは創作の意図が全く違う。例えば、ワズワース夫妻主催のパーティーに招待された理由がピアノ演奏と判って、社交界デビューに胸躍らせていた身の程を知り落胆するデューチンをオルリックスが慰めるところから、セントラルパークでデートを重ねる流れ。雨の中のふたりだけのシーンがとてもロマンチックで、特に逆光でシルエットが印象的な噴水のシーンがいい。順調に交際が進んでいるのを、次のシーンでデューチンの華麗なピアノ演奏の楽しさで表現している。結婚後のデューチン楽団誕生の喜びを妻と共有するシーンの演奏場面も素晴らしい。その他殆どのピアノ演奏は、デューチンの喜び哀しみのこころの表現の為に効果的に使用されている。また、海軍に入隊して前線で戦うデューチンには、二重の意味でこころが亡くなっていて、上官の慰問の打診を断るのだが、その転機になるミンダナオ島での廃墟の中で現地の子どもと連弾する場面は意味深である。彼のこころの姿が、焼けて中がむき出しになったピアノであり、そんなピアノだから思わず弾いてしまう共振であり、その子供の無垢さに気付かされてこころが再生するところが自然だ。後半のイギリス女性チキータから叱責を受け、漸く息子ピーターとの溝がなくなり、新楽団と子供たちが共演するシーンは無邪気に楽しい。続くホテルの演奏会のクライマックスが素晴らしい。ショパンのノクターンから編曲された主題曲”To Love Again”から始まり、ショーアップされた名シーンだ。台所から川沿いの歩道に移動するデューチンとチキータの告白の場面、両親の想い出のセントラル・パーク カジノの跡地である公園のエディ親子の場面と、屋外のカメラワークはマンハッタンの背景を上手く構図に収め、人物のこころに同調した画面作りをしている。そしてラストシーンの何ときれいな終わり方だろう。45年前の鑑賞でも、最も印象深いカットだった。
主演のタイロン・パワーは、「長い灰色の線」「情婦」に並ぶ代表作で、キム・ノヴァクは、「ピクニック」「めまい」に次ぐ存在感。実演ではなくとも、パワーの指使いの動きは見事につきる。ヴィクトリア・ショウはこの作品しか知らないが好演。そして、ピーター役のレックス・トンプソンと5歳の子役もいい。脚本、演出、演技、音楽のトータルで綺麗にまとまった佳作。
申し訳ございません。鑑賞は間違いないのですが時期は分かりません。また、内容は全く覚えてません。この映画よりもグレン・ミラー物語の方が印象に残ってます。兎に角、弦楽器が混じったビッグバンド・ジャズなんてJAZZだと考えていない無頓着さでした。ショパンの良さを知るようになったのも最近の事です。すみません。クラシックはレビュー書く程含蓄がある訳では無いです。昔のJAZZは知っている方だとは思いますが。それも、今は亡きオジキ(亡父の弟)のレコードコレクションの影響です。オジキはベーシストでした。僕は全くの無芸です。弁解じみて申し訳ありません。今後ともよろしくお願い致します。
Gustav理論による子どもの性別(今はグラデーションであれ)、なんだか説得力あって面白いです。妹や親戚の構成を思い浮かべながら笑ってしまいました。楽しいテーマとお時間ありがとうございます。
Gustavさんが挙げて下さった漫画映画、全部映画館で見てます!
父は洋画が好きで、子どもたち(娘3人!ということは亭主関白的父親?)が小さい頃はよく銀座とか有楽町に家族で車で出かけて映画館に連れて行ってくれました。この映画は父と一緒に見た、はじめての大人の洋画でした。