なごり雪 あるいは、五十歳の悲歌のレビュー・感想・評価
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なごり雪はあなたにも降る時があるのです
冒頭このようなテロップがでます
いまから二十八年の昔、その唄は生まれた・・・
それから日本の激動の歳月を経て、
この唄を作った人も、唄った人も、愛し続けた多くの若い人も
今、等しく五十歳を迎えた
そして伊勢正三が独りギターを弾きこの唄を歌ってタイトルロールが始まります
時折、その歌唱シーンに緑豊かな美しい山間部を走る列車が挿入されます
なごり雪の唄は今、この汽車がむかう、古里の駅で作られた
そうまたテロップが短くでて本編が始まります
2022年の早春
今年は記録的な大雪で北海道や東北、北陸などの北国は大変な冬でした
ようやくその冬も終わろうとしています
でも、もしかしたらなごり雪が降ることがあるのかもしれません
なごり雪は、伊勢正三が作詞作曲したかぐや姫という彼の在籍していたグループの歌
1974年3月発売の「三階建の詩」というアルバムの収録曲でした
このアルバムからは「22歳の別れ」、「赤ちょうちん」の2曲がシングルカットされて、どちらも大ヒットしました
しかし、「なごり雪」はシングルでは発売されませんでした
その曲が21世紀に残るどころかもっと後世にまで歌い継がれる歌になったのは、イルカのカバーシングルが大ヒットしたからです
1975年11月の発売でした
なので、ほとんどの人は「なごり雪」を、イルカのバージョンでしか知りません
♪東京で見る雪はこれが最後ねと…
自分もある年に東京を離れる日に季節はずれの大雪になり新幹線の窓から真っ白な光景を眺めながらこの歌が脳裏で流れてセンチメンタルな気分になったものでした
もちろんイルカのバージョンです
本作は2002年の公開です
ちょうど公開から20年経ちました
本作での「なごり雪」は、あくまで伊勢正三のなごり雪です
本作のサウンドトラックの為に、伊勢正三自身が2002年にセルフカバーをしたものが使われています
本作公開当時みんな50歳だった人達は、みな等しく70歳を迎えました
本作は公開当時、中年から初老に差し掛かった団塊世代の人生を振り返る物語でした
思い残してきたこと、やり残してきたこと、どうしてそうしたのかとおもうこと
それは後悔の記憶、それも思いだすと痛みがある記憶
それがなごり雪なのでしょう
ふざけすぎた季節のあとで、なごり雪も降る時もあることを知るのです
2022年の早春
本作を観る団塊世代の人々はどのような感慨を持って本作を観るのでしょうか?
70歳、人生の終盤です
彼ら彼女達の人生の終盤にも、なごり雪は降るのでしょうか?
私たち団塊世代の下の世代はそれは想像するしかありません
しかし本作の彼らが50歳になってしたように私たちもまた人生を振り返るのです
私達の下の世代もまた、きっとこんな思いをする時がいつかくるのだろうと思います
なごり雪はあなたにも降る時があるのです
蛇足
本作は大分県臼杵市が舞台になっていますが
伊勢正三自身が、歌のモチーフは出身地の大分県津久見市の津久見駅だと語っています
臼杵駅から宮崎方面に1駅10分程度の駅です
もう少し地方都市らしい駅なので、あまり風情が無いのでロケには使われなかったのかもしれません
非支持
慟哭
地方人の感慨として、東京へ出た同期が、まぶしい──というのがある。
男は栄進し、女はきれいになる。
知らない人であれば、きれいとは思わないかもしれない。
でも、知っている人だと──都会へ出て、洗練に浴して、変わった=きれいになったと、すごく感じる。
これは、卑下のような気分でもある。
臼杵と東京を行き来する祐作が、そのたび駅で雪子と別れを交わす。
そのときの雪子の発言がなごり雪の歌詞「春が来てきみはきれいになった、去年よりずっときれいになった」に重なる。
ただじっさいには、雪子はこう言う。
「~わたしあなたに約束するわ、わたし今はだめだけど、来年の春までに、きっときれいになる。うんときれいになってあなたを驚かせてあげるわ。だから、帰ってきて。こんどこの駅のホームで会うとき、あなたは言うわ。きっとこう言うわ。春が来てきみはきれいになった。って。去年よりずっときれいになった。ってね。」
東京へ出たのは祐作で、臼杵に残るのは雪子である。
雪子にとって、祐作は、どんどん離れていく、都会人である。
その位相があるかぎり、雪子はさいしょからかなわない恋を望んでいる──と言える。ひたすら純情に、祐作に思い焦がれている。
が、じぶんは田舎でしおれていくだけだ。およそ彼女自身「きれい」にはなれないと、うすうす自覚していたに違いないのである。
自覚していながら、いわば壮語のように「きれいになる」と約束する彼女の気持ちを思うとき、不憫でやるせない。
駅で別れる場面が数回あり、その都度、祐作は遠くへ離れていく。
とてもやるせない。
とうてい歌から翻案されたドラマとは思えない厚みがあった。
あえて連想すると「距離」が新海誠の諸作品思わせる。きみに読む物語のようでもある。多少飛躍するとブロークバックマウンテンのようでもありペパーミントキャンディのようでもある。新しくないけれど、古くない。そして古くならない。
大林宣彦監督のほかの作品同様、役者たちに演劇風の演技を課している。雪子のそれが、彼女の不器用と薄幸にしっくりと合っていた。記憶に残るヒロインを演じた須藤温子だったがその後鳴かず飛ばずで、ついぞ聞かない。
日本語に慟哭という言葉がある。
その泣き方で泣く人を見たことがない。
この映画のラストシーンのベンガルを除いて。
やるせない。悲しい。
Underratedもしくは認知度が低すぎる名画。
ここから理由へ続く00年代初頭は大林監督の絶頂期だったと思う。
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