「「忠臣蔵」とはいえないが…」わんわん忠臣蔵 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
「忠臣蔵」とはいえないが…
四方田犬彦が日本映画における「忠臣蔵もの」の隆盛から日本人のナショナルな心性を読み解く、的な批評を書いていて、その中で「忠臣蔵もの」の精確な計数を困難なものとしている傍流として本作や『OL忠臣蔵』が挙げられていた。とはいえ忠臣蔵の名前を冠している以上はおおまかなプロットは踏襲しているはずだと思い鑑賞したが、復讐譚であるということ以外に忠臣蔵的要素は見受けられなかった。
本作ではキラーというならず者の虎に母親を殺された子犬のロックがキラーへの復讐を成就させる。しかし浅野内匠頭と大石倉之助の関係を取り結んでいたものが血縁関係に拠らない「忠義」であったことを鑑みると、復讐の動機を「親子の情」としている本作はある意味で忠臣蔵から精神的に最も遠い復讐譚であるといえる。単なる復讐譚であれば忠臣蔵でなくともそこいらに横溢しているため、本作を「忠臣蔵もの」として評価することは難しいように感じた。
さて忠臣蔵として見ると片手落ちの感が否めない本作だが、60年代のアニメーション劇映画の系譜の中で考えてみるとなかなか面白いかもしれない。
太平洋戦争末期に制作された『桃太郎 海の神兵』から本作に至るまで、ジャパニメーションはアメリカのディズニーを範型としながら発展を遂げてきた。現在のジャパニメーションの源流と名高い1958年の『白蛇伝』でさえディズニー的な作画文法をふんだんに用いていた。範型、といえば聞こえはいいが、それは見方を変えれば「アメリカに追いつかねばならない」というオブセッションの表れだったのかもしれない。本作でロックが街に出るシーンで、街の風景が明らかに非日本的(=西洋的)なモダニズムに彩られていることなどがその好例だろう。街中をモダン建築と英語で埋め尽くすことで「貧相で古臭い東洋」を徹底的に排除しようという意図が読み取れる。動物たちの物理法則を無視したスラップスティックなギャグ表現などもいかにもカートゥーン的だ。
とはいえ一方でアメリカのカートゥーンには見受けられないような、いわゆる「ジャパニメーション的」な表現がところどころに滲出していることも事実だ。『桃太郎 海の神兵』では、概してディズニー的なスタイルではあるものの、序盤の自然描写や終盤の落下傘部隊投下シーンなどは、現実の物理に即したリアルな重みが感じられた。本作であれば、たとえば冒頭の小動物がキツネの赤耳から逃げるシーン。ここでは2匹の様子を引きのショットで映すのではなく、小動物の一人称視点を背景動画でダイナミックに描くという立体的な作画手法が採用されている。こうしたリアリズム的表現というのは、後のジャパニメーションの発展史においてもことさら重要な役割を果たしたといっていい。ジャパニメーションが宮崎駿や大友克洋や押井守や新海誠を生み出せたのも、黎明期の日本製アニメがディズニーを呼吸しながらも独自のスタイルを錬磨していったからに他ならない。